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神君伊賀越えの旅 Day1 堺→尊延寺 42.8km

2021年3月のブログ記事の転載になりますが、当時、関西地方を旅していました。何をしてきたかというと、実は、、


神君伊賀越えの旅

伊賀越えについてはここで改めて説明するまでもないかとは思いますが、甲州征伐の後、織田信長から安土城での接待を受けた徳川家康は、信長の勧めで堺の街を見物した後、京へ戻る途中で信長が本能寺で横死した知らせを受けます。

で、わずかな供回り(30名くらい?)しか連れていなかった家康は窮地に立たされ、自刃することを考えたとも、それを止めたのが家臣である本多忠勝で、何とか畿内を脱出しようと試みたのが、家康の神君伊賀越えです。

今回の神君伊賀越えの旅で参考にしたのはこちらのブログ記事でした。


忠実に日付も合わせて行おうかと思ったのですが、本能寺の変は6月2日でそこまで待っていられなし、その時は秀吉の中国大返しもやってみたいので・・・(笑)



で、一応、忠実通りに(?)前日に堺入りをして、堺見物を行って1泊しました。


そして、翌朝 、堺東駅からスタートです。
家康達は松井友閑の屋敷に宿泊し、妙国寺に寄って商談をしたとか諸説ありますが、分かりやすく駅からとしました。

朝の通勤ラッシュを横目に


川を渡って堺市から大阪市内へ入ります。

当時は渡し船があったのか?


大阪市内に入りました。

川を渡っただけなんだが


大阪でよく見かけるこのスーパーマーケット、名前や派手な外観から、最初はパチンコ屋さんかと思いましたよ。

やっぱりパチンコ屋にしか見えない


大阪には結構あちこちにアーケード商店街があるんですね。面白い。

早朝なのでまだ開いていないのか?それとも・・?



目の前にアベノハルカスが見えてきました。

遠目にアベノハルカス



グーグル先生に導かれて、コリアタウンにやってきました。早い時間帯だったせいか、まだほとんどお店は開いてませんでした。まあ、家康の頃にはなかったのでいいのですが(笑)

店舗はまだ開いていなかった


目の前に飯盛山が見えてきました。
この山の頂上には城跡があるのですが、今回の旅のテーマから少し逸れてしまうので、城攻めはまたの機会に行うことにします。

ここだけやたら道路がきれい



この飯盛山の麓で先に京に向かっていた家康の家臣、本多忠勝と遭遇します。そして、飯盛山の麓とはどこだったのか、正確な場所はわかりませんが、ここで家康は信長が本能寺で亡くなったことを知らされます。

飯盛山はまた次の機会にでも


衝撃のニュースに「切腹する!」と動揺する家康ですが、本多忠勝にたしなめられ、これからどうするかを協議することになります。その場所はどこか分からず、四條畷神社あたりに目をつけて見たのですが、明治23年創建ということで全く関係なく、、、、。

当時はなかった四條畷神社



一旦堺まで戻り、船で三河の岡崎城を目指すか?
→いや、紀伊辺りで海賊に遭遇したら一巻の終わり。

では、このまま京に向かい、そこから東海道に出るか?
→いやいや、明智の領地を通るなんてもってのほか!

ではどこを通れば、、ってことで、伊賀越え案が浮上し、伊賀越えを行うことに。



ということで、ルートを伊賀方面に変えますよ。

のどかな風景が広がる


国道1号線をしばらく歩きますが、地味にアップダウンがあるし、単調だし、ちょっと嫌になってきましたよ。

単調で長いのだ



で、本日のゴールはセブンイレブン枚方尊延寺店としました!

この石碑は?


というのも、伊賀越えの形跡がようやくここで現れたのと、初日はこの界隈に宿泊した説を採用したためです。

今回の旅はこの20リットルのバックパックだけ


とりあえず、バスで枚方市駅まで戻って、その日宿泊予定の宿に向かいました。
翌日はここからのスタートとなります。

バスの本数が少ない


朝7時半頃に堺を出て、四條畷神社に着いたのは正午近くで、当時の家康達の行軍スピードとほぼ変わらないんですよね、、もしかしたらもうちょっと早くに堺を出たのかな?

Garminの記録


翌日が本格的な伊賀越え開始ということで、 ホテルに着いたら、シャワーを浴びて早々に就寝しましたよ。

(続く)


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