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インペリアル・ディテクティブ 第2話

ファイル2  新山栄治ケース・M資金


順平はその後一ヶ月ほどの間単調な入力作業を続けていた。

古い資料の旧仮名遣いを読みこなすだけでも時間が掛かる。
そうしてたまに画面をインターネットに変えては、ニュースを読んでみたり、仕事上の気にかかる言葉や人名を検索してみたりしていた。

地上の生活は仕事が終わってエレベーターで地上階に出てから始まる。

庁舎を出て電車に乗り、家に帰るともう夕方で、太陽を拝めるのは次の朝になる。

忙しなく出勤してしまえば、太陽の光を浴びることの出来るのは、昼休みだけになってしまう。
だから朝目覚めた時、カーテンが暗く映り雨だったり曇りだったりするといっそう心が憂鬱になってくる。
通勤帰宅の電車の中で拝む太陽の光が貴重に感じる。昼休みの街路樹からの木漏れ日がもったいなく感じる。

そうしてまた、蛍光灯の光だけの薄暗い部屋でパソコンの明るい画面を見ていると、順平は自分が別の世界にいるように感じて来る。
2Bの不思議な過去の世界からパソコンを通して、現実の平成の世の中を眺めているような錯覚に陥ってしまうのである。
それも一人で、無言で作業を続けていると、時折垣間見るネット経由の世界は華やかで刺激に満ちていると感じる。

サイトに表示される広告の女性のファッションが明るくなり薄くなり始めていて季節を感じ取る。花粉症対策の方法が載っている。

「順平君、今晩、時間ある?」

「あ! はい、まぁ、いつでも」

突然事務室に入ってきた美山の声に順平は驚いた。

「ねぇ、事務仕事は定時に終わらせて、外で遊ばなきゃだめよ。でないと感覚が麻痺してくるわ。それより、今晩、付き合って。熊さんと飲みに行くの」

「え、クマさん? 球磨川さん? そんな。僕が行ったらお邪魔でしょ」

と、順平は以前一度だけ乾門で球磨川に会っただけであったが、どことなく彼の気持ちを察していた。

「恩田さんも来るわよ」

と、美山が恩田の顔を伺うと、

「あ、ああ」

今度は恩田が驚いたように顔を上げた。

「あ、はい、そうだんですか。じゃ、お供します。やっぱり現実の世界を実感しないといけませんね」

     *

恩田は用事があると言い残して先に外出し、その後美山と順平が定時になって事務所を出た。   

順平が美山に連れて行かれた浅草の居酒屋は相当の混みようであった。

それもそのはず、単品は値段がどれも三百円均一で安い。
もつ煮込みの鍋をオープン・キッチンの中心に置き、壁には数々の品書きが壁に張られている。
現実の世界と言っても、昭和の高度成長期の下町そのままの店である。

順平は美山の後について店の奥に進むと、階段の前に靴やサンダル、下駄などが散乱しているが、客の人数は二、三人と言ったところであろう。二人は順に靴を脱いで二階へ上がった。

店員に教えられた部屋の襖を開けると、すでに二人の男がお茶を啜りながら向かい合って神妙に話をしていた。順平は恩田がすでに来ているのだろうと思っていたので狭いながらも恩田の痕跡が無いかと部屋中を見回してしまった。

階下や外の客の声が開けられた窓から飛び込んでくる。

「あ、美山さん。お待ちしておりました」

「ありがとう。球磨さん」

球磨川はにこやかに挨拶をすると座布団を差し出した。
皇宮護衛官の制服を脱いだ球磨川は、ユニクロで大量生産された四十代の男性である。

「お久しぶりです」

もう一人の男が座を少し引いて頭を下げた。体に似合う紺のスーツはオーダーメイドであろうが、浅草の下町の居酒屋には似合いそうにない出で立ちである。

その鋭い目つきと温厚な目つきの球磨川が向かい合ってお茶を飲みながら話している姿が順平にはどことなく滑稽に見えた。

「鬼塚さん、お久しぶりです」

美山が座布団に座りながら挨拶をすると、続いて順平も同じように挨拶をした。

「あ、梅沢順平です」

順平は美山の横に座りながら相手の反応を伺った。
スーツ姿の鬼塚の挨拶に対して美山の態度がすごく馴れ馴れしく感じた。

「おう、君が梅沢君か。どうだね。2Bの仕事は慣れたかね」

鬼塚は順平とは初対面でもやけに親しそうに話しかけてきた。

「順平君、こちら、警察庁の鬼塚さん」

順平はこの人も2B関係者なのだろうと思ったがあえてそれは聞かなかった。

「は、はい。ぼちぼちと」

すぐにお茶が運ばれてくると、丁度そこへ恩田ともう一人の男が連れ立って現れた。

「いやぁ、すみません。遅れてしまいました」

恩田は座るとすぐに順平に向かって話しかけた。

「あ、梅沢、こちら、財務省の宝田さんだ」

「あ、はじめまして。梅沢順平です」

「ほほう、君が新人の梅沢君か。よろしく頼むよ」

座りながら挨拶をする宝田は少々小太りでにこやかな笑顔が印象的なオジサンである。

そうして六人が揃うと、鍋の支度が始まった。ただ酒は用意されない。

支度が終わり、中居が部屋を出ると、球磨川が窓を閉めた。

晩春でも部屋を閉め切って鍋を囲むとさすがに暑くなってくる。
すると、鬼塚が話し始めた。

「いやぁ、実はこの前、愛知県高石市の旧村営家作住宅の床下から、女性の白骨死体が出てきたんだよ」

他の三人は平然と鍋をつついているが、順平は顔を上げて鬼塚を見てしまうと鬼塚と目が合った。

「大丈夫です。隣に客は居ませんから」

球磨川が順平の不安を察したつもりで口を挟んだ。それに続けるように鬼塚は説明を続けた。

高石市は数年前、高森(たかもり)村と石和(いしわ)村が合併して出来た市で、統合後それまでの村営の仮作住宅を取り壊し、近代的な住宅を建てようとした。
その取り壊した住宅の床下から人骨が出てきたのである。

鬼塚は斜め前に並んで座る美山と順平の顔を交互に見る。
それを気にすると順平は箸を進められない。

「身元が解らなかったんだ。完全に白骨化した骨の検査と衣服や残っていた所持品から死亡推定時期を考えて、殺されたとすればだいたい55年ほど前。
埋められたのは昭和30年頃ではないかと言うことだ。

その頃、その仮作住宅に住んでいたのが、高鍋春子。春子は当時夜逃げと判断され、借金や滞納していた家賃の不払いを求めて債権者から民事訴訟を起こされていたんだ。

まぁ、そこから大体は特定できた。その住人、高鍋春子。旧姓は新山で大正12年、愛知県高森村生まれ。
まぁ、警察は時効成立ということで処理したけどな。ただ本当に春子なのか、科学的な証拠が無いんだ。DNA検査をしようにも肝心の照合する家族がいない」

鬼塚はそっと鼻で笑ってから口をつぐみ鍋を突き始めた。

「そういった、時効の成立した刑事事件は、警察だけじゃなく私たちでも調べませんよ」

と、美山は表情を変えずにつっけんどんに答えてモツ鍋の中の焼き豆腐や小さな根菜を突いている。

「まぁ、そこからは、私の方から説明しよう」

と、宝田が箸を置いて胸で腕組をした。

「最近の与党、民自党の予算確保のためのえげつない仕分け、ご存知だろ」

隣で恩田が黙って顔をしかめた。

「経済を活性化するどころか、失策続きで、挙句に国債の乱発。国は火の車だよ。その上での苦肉の仕分け。そこで財務大臣が目を着けたのが、M資金だ」

宝田は嬉しそうにそして自慢げにその座を眺めまわした。

美山と球磨川はまるで詰まらないお笑い芸人への愛想笑いのような顔で宝田を見つめたが、順平は最後の言葉に不思議な響きを感じていた。

「田中財務大臣ね。あのジジイなら思いつきそうな詐欺ね」

と、美山は今にも噴出しそうに笑いをこらえている。
順平は不思議な響きを持つM資金が何なのか分からないので聞いてみた。

「それって、埋蔵金って奴ですか?」

「いやいや、ただ単に私らが勝手にM資金と呼んでいるだけだ。君たちを詐欺にかけようって訳ではない」

宝田が言った『M資金』とは、

終戦直後に始まった朝鮮半島、中国大陸、南方からの引き揚げの際、軍部や民間の莫大な資産が本土に流入すると経済的に混乱をきたしインフレを招く恐れがあるとして、GHQが一旦差し押さえるという形で保留保管されていた財産である。

ただ、個人の資産の場合は勝手に処分するわけにいかず、占領軍撤退後は大蔵省が管理してきた。

しかし、その後も受け取りに現れない者がいて、そうして保留されている金額が、平成の価値と照らし合わせても、十億円に登るのである。
財源確保に奔走する与党民自党は、そのM資金に目をつけたのである。

「そうした引き取り手のない資産が、金塊になって日銀の地下に眠っておる。
で、当時の満州銀行に預けられていた資産の中で、新山栄治という者の名前を見つけたんだ。今日の額で一千万円。
今でこそ家一軒買えないが、昔なら相当の額に登る資産だ」

「新山……春子と栄治が繋がると?」

と、美山はモツの塊を箸に持ったまま鬼塚の顔を伺った。

「そう、先日、宝田さんと話していてね。関連があるんじゃないかと思って。2B連絡員を十年もやっていると感が働くようになる」

鬼塚はすこし自慢げに箸で順平を指した。

「そうそう、そこで、2Bにお願いしたいんだ。まだまだ引き取りに来るかも知れない個人の財産を内緒で国家予算に組み入れてしまうなんて、民意に反しておる」

宝田は不満げな態度を取って見せた。

「と言うより、与党の遣り方に反感をお持ちなんでしょ」

美山は受け皿を置きながら宝田に向かって言った。

「まぁ、それを言ったらお終いだよ。とにかく一人でも引き取り手が現れれば、勝手に国庫に組み込むこともできまい」

それまで黙々と食べていた恩田が顔を上げた。

「じゃぁ、梅沢、お前やって見ろ。美山さん、手伝ってあげて」

「はい」

美山と順平は同時に返事をした。

「じゃ、順平君。まずは、明日から関係者の身元調査ね」

「もう好いですか。お酒、頼みましょう」

球磨川が立ち上がって窓を開け、そして襖を開けると、階下に向かって従業員を呼んだ。

「梅沢さん、どうですか。今度の仕事は?」

球磨川が順平に聞いてみた。

「んん、単調な作業が多いんですけど」順平は背筋を伸ばして球磨川に向き直った。

「そういえば、この前の塩田ケースを思い返すと、なんか、タイムマシンで過去に行って、生きている人を殺したり、死んでいる人を生き返らせたりしているような、そんな気分になるんですよ」

すると美山が口を挟んだ。

「未来小説でよくある話ね。でもたとえタイムマシンが出来て過去に遡れて、未来の人が過去の人を殺すなんてことはできないわ。くだらない空想小説なんか読んでちゃだめよ」

「え、ま、まぁ」

「過去に行って、自分の祖先を殺すとして、そしたら殺す理由がなくなっちゃうじゃない。歴史は書き換えるもの。でも作り変えることは出来ないわ。
ある日突然、誰かが消えてしまっても、タイムマシンで歴史が変えられたんじゃない。神隠しでもない。
その人は必ず何所かにいる。自分の意思で隠れたか、殺されて遺棄されているか、何処かの国に拉致されたとか、必ず今の人が成していることなのよ」

ビールと焼酎が運ばれて来ると球磨川は順平にビールを注ぎながら言う。

「どんな小さな人でも、今という歴史の一瞬一瞬を作っているんですよ。どんな高徳な人でも悪人でも、小さな子供も老人も、男も女も……」

そうして六人はしばらく世間話をして居酒屋を後にしたのであった。

     *

次の日から、順平は鬼塚と宝田に渡された資料を基に、関係者の戸籍や経歴を調べ始めた。

まず宝田の推理を翻そうと、M資金の所有者である新山栄治の身元を調べることにし、また生きていれば厚生労働省、そして死んでいるなら総務省や法務省と、2B連絡員の協力を仰いだ。

順平はまず古巣の厚生労働省に出向くと、最初にもと居た部署へ挨拶に行った。

すると、彼を左遷した元上司徳井は機嫌よく順平を迎えた。

「どうだ、梅沢君、今度の仕事は……」

「ま、まだ始まったばかりで……」

順平は徳井に対する審判を先延ばしにした。
そして年金記録の閲覧を頼むと二つ返事で了承してくれたのである。

「菊のご紋には逆らえないね」

と、徳井は笑って言う。

順平はその言葉で徳井も連絡員ではないかと思い始めた。

厚生労働省の年金記録から、同姓同名二十五名を洗い出し、鬼塚と宝田から送られた資料から特定を試みた。

資料の財産目録の通貨単位『圓』から、探しているM資金の保有者新山栄治は外地満州にいたはずである。
リストの中から満州に居たという経歴と一致する男が浮かび、東京多摩市に住む新山栄治が特定できた。
彼には満州生まれの息子もいた。

そして実際にその周りを訪ねて本人である証拠を集めていくことにした。

「この新山栄治がM資金の持ち主でしょうか?」

「まだ解らないわ。順平君、関係者はまだ生きているんだから、調査は慎重にしないとね」

初期の段階では、関係者に直接会うことはしない。
どのようなプライバシーが隠されているか解らず、それが相手を刺激してしまうとも限らない。
そしてこれは刑事事件の捜査ではない。

新山栄治、大正九年、岐阜県美濃部郡杉原村生まれ。
五歳のときに愛知県の高森村の新山家に養子に迎えられた。
現在九十歳。東京多摩市の都営アパートに妻アヤと共に住んでいる。
その長男忠明は昭和16年、満州生まれで、六十八歳。中堅食品加工会社の取締役を勤めた後昨年定年。
次男伸介は昭和24年、東京生まれ。現在六十歳で昭和自動車会社の重役としてアメリカ勤務の後東京の本社に帰任、今も役員を務めている。

順平はこの新山栄治という男に一旦目星をつけ、次に高鍋春子を調べることにした。

高鍋春子。旧姓新山。大正12年、愛知県の高石市、旧高森村生まれ。その兄は栄治である。

春子は昭和18年、高鍋忠と結婚。しかし夫を亡くし戦後愛知県高森村に帰り住む。
子供はなし。昭和30年頃から役場などとは連絡が付かず行方不明であったが、その時期は民事の訴状から特定できた。
唯一の肉親であるはずの栄治からは捜索願や失踪届けは出されていない。
そして平成、白骨死体として発見された。

新山栄治も春子も、戸籍上は新山新作の子であるが、栄治は新山家に養子に来ている。
栄治は引き揚げ後、東京に定住。

順平はここまで調べるのに二週間を費やした。

「名前だけは繋がったわね」

美山は順平の推理の暴走を気にして言葉をかけた。
順平は次にどう行動するか美山の言葉を待った。

「じゃぁ、今度は、死んでいる春子のいた高石市に直接調べに行って見ましょ。何か彼女の話とかを聞けるかもしれないわ」

「はい」

「M資金の所有者かどうかは別として、なにかありそうね」

二人は暗い2Bを飛び出すことにした。

     *

順平と美山は春子の出生地であり春子が戦後に住んでいた、愛知県高石市に向かった。
それぞれの関係する日本の土地を直接訪ねて、繋がりのある人を探しながら地道に調べるしかない。

高石市は東京から新幹線で一時間、在来線に乗り換え一時間弱。
そしてバスで五十分ほどの、田園風景の広がる田舎であった。

美山は手馴れたもので、到着するとすぐに順平を先導して市役所を尋ねた。
こういった一般社会での調査の場合厚生労働省や防衛省の職員を名乗ったりする。

今回は徳井の計らいで厚生労働省の出先機関の職員を名乗った。警察権を行使したり、探偵や弁護士を騙っても周囲に先入観を与えてしまうからである。

「高鍋春子? ああ、この前白骨死体が上がったけど、警察は時効で処理したそうですよ」

市役所の戸籍係の高田はもはや仕事よりも定年後の生活に夢を見ている初老の男で、二人がその春子の生前のことを調べたいと願い出ると面倒くさそうに資料庫に二人を案内した。

「高鍋春子……旧姓新山」

順平は何度も名前を確認するように高田に聞いてみた。

「そうとう古い記録ですからね。残っているかな。今は住民基本台帳に移行して、新しくしちゃっているから。
にいやま、にいやま……あれ、新山薬品のことですか?」

戸籍係は何かを思い出したように後ろについてくる二人を振り返って逆に聞いてきた。

「ご存知なんですか?」

順平は新しい情報が掴めそうに思い美山の隣から高田の前に一歩踏み出た。

「えぇ、戦前は、この辺りで有名な家だったそうですよ。昔から薬を売る仕事で稼いでいたらしいんですが、息子が満州で財を成してからって言うもの、店を大きくしたり工場を建てたりして羽振りが良くなった。
ところが娘は嫁ぎ先が空襲にあって、焼け出されて、この村に帰ってきたそうなんですよ。
娘さん、その後も相当苦しい生活をしていたようで。もしかしてそれが春子だったかな。ま、これは私のうろ覚えと、私の母から聞いた話です。昔父が新山家にお金を貸していたとか……その新山かな?」

「あのぉ、お母さんは、まだ、ご存命ですか?」

順平は興味が湧いてきて、もし出来るなら会って話を聞いてみたいと思った。ただ高田には春子のことは敢えてそれ以上聞かないようにした。

「えぇ、母は、耳が遠いですけど」

     *

二人は戸籍係の高田に紹介され、その高田の母親を訪ねた。
そこは隣の市にある老人ホームで、一歩踏み入れると、病院の薬臭い匂いと老人の饐えた特有の匂い、そして給食の匂いの混ざった空気が充満していた。
二人は介護師に案内されて、廊下を歩きながら丁度鼻が匂いに慣れた頃、高田の母親の部屋に入った。

黄色に近いクリーム色の色調の部屋で、窓からの太陽光とともに暖かさ以上に暑さを感じさせる。

二人が挨拶をすると、八十七歳で耳は遠いが、聞き取れると確りと言葉を返して来た。

美山が初めに切り出した。

「ねぇ、高田さん、新山春子さんってご存知?」

「えぇ?」

老婆が頭を傾げて聞き返しても、美山は焦らず根気よく何度も丁寧に聞き続ける。

「新山春子さん。結婚して高鍋になったわ」

「あぁ、春ちゃんだね」

そう言って彼女の子供の頃のことから、ゆっくりと話しはじめた。

遊んだ場所やどんな遊びをしたかなど、直接関係がないように思われることでもじっくりと聞きつづける。
核心を聞きたくて無理に問い詰めると、思い出が前後して混乱してしまうことがあるからだ。 

二人はその老人の話の流れに時間を委ねてじっくりと聞く。

すると話の所々に栄治の名前も出てきた。

春子は高鍋忠との結婚後名古屋に移り住んだ。
そして空襲で忠を亡くした後、高森村、現高石市に戻ってきた。
当時の新山家はすでに戦争で他の息子も失い、戦後暫くして春子の両親も亡くなった。
その後も一人で高森村に住み続けたのである。
高田の母親はその苦労をも語っていた。

そうした中で、春子は常に満州の財産があるから、と言っては借金を重ねていたそうであった。

「お婆ちゃん、栄治さんの事は覚えている?」

「あぁ、覚えているよ。とうとう満州から帰ってこなかった」

美山も順平も、ここで春子と栄治の繋がりがぷっつり途切れたように感じながら老人ホームを出た。

ホームを出ると、どこに行こうか決めてはおらず、これからどこに取っ掛かりをつかもうか思案しながら重い足取りはバス停へと向かった。

栄治は満州から帰ってこなかったのである。

とすると、調べだした新山栄治は別人なのであろうかと疑念が沸いて来る。

「変ですね。じゃぁ、あの新山栄治って、やっぱり同姓同名の別人? 普通、帰ってきたら実家に挨拶に来ますよね」

「そうだ、春子にお金を貸していた人に会ってみましょう。民事訴訟を起こしていた人」

二人は法務省の赤岩に電話を架け、民亊で訴えていたとされる人を割り出し訪ねた。

横田和明、七十九歳、今も高石市在住である。
昔は酒屋を営んでいたが、今ではそれを息子がコンビニに替え、自らは隠居している身で、住居はそのコンビニの裏にある庭の広い家であった。

「あぁ、だいぶ前、白骨死体が発見されたってニュースを見たよ。それで思い出した」

春子のことを聞くと、横田は最早他人事のように語った。

「あの場所には何度も取り立てに行ったからね。結局逃げられたと思ってね、夜逃げだよ。
そこで癪に障るから、金を貸していた数人と一緒に民亊で訴訟を起こしたんだ。
結構な額だったからね。それに私もまだ若かったしね。なにせ満州から帰ってきた兄が財産を分けてくれるとかで、それを信じて貸したんだよ。

新山薬品って言えば、戦中は羽振りがよかった。M資金とか口にしていたのを覚えている。
しばらくしてM資金詐欺だと思って、すぐに取り立てに行った。ところが家はもぬけの空だったんだ」

M資金という言葉が出てきた。
横田はM資金の話になるとことさら呆れた表情を作り出したが、順平と美山は栄治と春子の途切れた繋がりを再び繋げてくれるのがそのM資金だと思った。


 コンビニ近くのバス停までの足が速くなった。

「今晩、戸籍をもう一度確かめましょう」

「はい」

順平は美山の提案に素直に頷いたが、その日の宿は定めていなかった。
とりあえずやってきたバスに乗り高石駅へと戻り、駅前の観光案内所でビジネス・ホテル探してもらいそこに投宿することにした。

ホテルのロビーは狭く、数人の会社員らしき男たちがソファーを占領して仕事の話をしていたが、美山と順平はそんな所では仕事の会話はできない。
美山の部屋に篭り、二人で栄治の戸籍を丹念に調べなおした。

順平は床に膝を着き美山のベッドの上に書類を広げていく。
無理に繋げようと思いながら何度も書類を捲り直す。

その途中から美山は壁に設えられた狭い机の上で携帯パソコンを広げ戸籍法を調べはじめたのである。

昭和二十二年、戸籍法が全面改正され、家を基本単位とする戸籍から、夫婦を基本単位とする戸籍制度に替っていた。
ただ戦後の混乱の中、全てが整うまで十年ほどの年月が費やされているのであった。

美山がパソコンから顔を上げ順平を振り返って言った。

「ねぇ、この栄治の最初の奥さん満州で亡くなり、満州で生まれた子供の出生届け、丁度戸籍法改正に会わせて東京から届けが出されているわ。
それも昭和二十八年。ちょうど春子が殺された時期に近いわね。昭和二十七年に住民登録法が発布されているし、当時はまだ電話でさえ十分に普及していなかった。全て郵便によるやり取りね」

順平は壁に向かう美山を振り返って聞いていた。

「そうか、今だと、引越し先の市役所に行けば、すぐに前の住所の市役所に連絡が行って、どちらにも、転出、転入の記録がすぐに残りますよね」

「そう。夜逃げしても、住民登録をしてしまうと、逃げた先が解ってしまい、借金取りが追いかけてくるわ。だから、たとえば子供のいる家族で夜逃げした場合、子供は学校に行けないとかの不都合が生じていたわね」

「あの、仮にですが、仮に、新山栄治が実家に行けない理由があって、満州から引き上げ後東京に住む。
でもそういった登録をすることで、春子は栄治が生きていることを知った。
春子は貧困生活の中、それを知ったからこそ、満州で財産を積み上げていた栄治を頼ろうとした。
それがM資金という言葉だったんじゃないでしょうか?」

「いい推理かも。でももう少し春子の方から調べましょ。新山家の実家は、戦中相当羽振りが良かったそうじゃない。薬品製造会社、新山薬品はなんで潰れたのかしら。
両親が亡くなって栄治が帰ってこないとしても春子が継げばいいじゃない? 大きな家柄なら婿養子を貰うなりしてもいいと思うし」

「そうですね」

順平はベッドに腰掛け腕を組み頭を傾げた。

「明日ね」

「そうですね」

「もう寝ましょう」

「そうですね」

「どいて。部屋から出てって」

美山の口調がきつくなると、順平はやっと我に帰り照れながら美山の部屋を出た。

     *

次の日、二人はもう一度高石市役所に出向き、戸籍係の高田に聞いてみた。

「新山薬品のこと、知っていることだけでもお話願えませんか」

「あぁ、戦時中は軍との取引で儲けていたそうですよ。ところが軍は解体、取引どころか薬品製造の許可も取り消されて、GHQの指導のもとの第五次財閥解体で新山家は会社と財産を失ったそうですよ」

第五次財閥解体とは、GHQの行った財閥解体の最終段階であり、三井、住友、三菱、安田、中島などの第一次指定から順次子会社孫会社を指定し、五回目に指定された地方小規模財閥の解体をさす。
それにより特に軍事関連の会社は取引先や特権を失い、生き残ることは困難であった。

二人は新山薬品の倒産の流れを把握すると市役所を出、程近いバス停の箱の中に座って話し始めた。

「そうね、戦争で焼け出されて、実家の両親も病没。一人ぼっちになった春子は、帰ってこない栄治が、実は生きて帰ってきていて、それを知り頼ろうとした。順平君の推理、当たりかも」

「でも、そうだとしたら、なんで栄治は実家や春子から身を隠していたんでしょうね」

「戦犯として追われていたわけじゃないし」

「でもこれで春子の戦後が見えてきましたね」

順平は今までよりも真面目な顔つきで美山の顔を見た。

「順平君、今度は、栄治の戦後を調べてみましょう。とにかく私たちが引き出した栄治は引き揚げ後、すぐに繭住アヤと結婚、それも実家のあった郷里に寄ることなく。まったくもって郷里を避けているようね。順平君、一度東京に戻りましょう」

「そうですね」

「ただ、順平君。これは殺人事件の捜査じゃないのよ。あくまでも、宝田さんの言う、M資金の所有者を割り出すこと」

「はい」

順平は2Bの仕事に探偵ドラマ風の面白さを感じてきていたときだっただけに、美山の一言で再び気持ちを引き締めた。


一旦2Bに戻った二人は、恩田に報告を済ませると、今度は東京に住む新山栄治を調べることにした。
ところが恩田は報告を聞いた後、PCに向かう仕事の手を休めると、立ち上がって背伸びをし、机に腰掛け語りだした。

「満州か。梅沢、その新山薬品をもっと調べてみろ」

恩田は意味ありげに順平に視線を向ける。

「はい」

「順平君、満州の満鉄やその関連会社、それと栄治が住んでいたところの割り出しからやってみたら」

「満州。朝鮮半島ですか?」

「違うわ。朝鮮半島は、1910年、明治43年に日本に併合されているの。あそこは日本であったという認識ね。満州はその北西。地図を開いて確認しなさい」

満州は今日の中華人民共和国北東部、遼寧省、吉林省、黒竜江省、内モンゴル自治区を指す。
そして北はアムール川、東はウスリー川に接し、その北東部を外満州と呼ぶ。南は鴨緑江と言う川で、現在も北朝鮮と中華人民共和国の国境となっている。

恩田は満州とその地域の歴史を語り続けた。

「その鴨緑江って言うのは、日露戦争の時、ロシアと日本の間で渡河をめぐって激戦が繰り広げられたんだ。もともとシベリア鉄道建設で苦心していたロシアは、ネルチンスク条約以後、アイグン条約や北京条約で、外満州を手に入れたんだ」

恩田や美山にとってはすでに何度も調べたことのある時代であった。

「あぁ、昔、世界史で習った条約の名前ですね」

「お前の昔はそんな昔じゃないだろ」

その後、ロシアは極東での南下政策を強め、李氏朝鮮国から数々の利権を獲得する。
それを恐れた日本は李氏朝鮮国と江華島条約を結び朝鮮半島に権利を拡大していく。
そして日露が対立するなか、大韓帝国と改めた朝鮮国は中立を宣言、1904年、日露戦争が始まったのである。
1905年9月5日、両国はポーツマス条約を結ぶ。
勝利国であるはずの日本は、賠償金を請求できないなどの条件を突きつけられるが、朝鮮における主導権と満州南部旅順長春間の鉄道権益、および関東州の租借件を得た。
そして1910年、大韓帝国は日本に併合された。

「このとき、創設されたのが、南満州鉄道株式会社よ。数々の事業を手がけ、満鉄十年計画として、大連、奉天、長春などで近代都市計画を推し進めたの」

1905年のポーツマス条約でロシアから引き継いだ東清鉄道の支線、南満州鉄道にはその鉄道付属地制度もあった。
その鉄道付属地に「土木教育衛生等二関シ必要ナ」施設を建設して行ったのである。
この関東州に守備隊として派遣された日本の軍隊が、関東軍と呼ばれる。

1912年、辛亥革命で清朝が倒れた後に中華民国が成立するが、しかし軍閥を押さえきれず、満州は張作霖の軍閥の支配下にあった。
張作霖は親日派であったが、排日運動の高まりと欧米からの資本を取り付けるため、日本と距離を置くようになる。
満鉄と並行するように路線を建設したりし、関係が悪化すると、1928年、関東軍は彼の乗る列車を爆破し殺害した。

そして1929年、ロシア革命後のソ連が満州に侵攻。
ソ連は中華民国とハバロフスク議定書を締結、満州における力を拡大した。
すると関東軍は本国日本に諮ることなく満州の軍事占領を計画する。
そして1931年9月、柳条湖において満鉄を爆破破壊する。
関東軍はこれを張作霖の息子、張学良の仕業とし、自衛行為を主張、満州の占領に乗り出した。
この関東軍の自作自演の事件が柳条湖事件である。

「満州事変、って奴ですね」

順平は、それぐらいは知っていると自慢げであったが、

「順平君、事変と戦争とどう違うの?」

と聞かれると答えに困った。

「え!」

「簡単に言えば、戦争は宣戦布告がなければだめ。宣戦布告がない戦争が事変。もともと警察権では収まらない軍事行動を伴う事件を言うんだけど、長引けば戦争ね」

「そうか。じゃ、太平洋戦争は、宣戦布告があったんですね」

関東軍の独断による占領は続き、四日後には朝鮮半島の日本軍とそれに従う朝鮮軍も越境し侵攻を始める。
そして翌年1932年2月にはとうとうハルビンを占領する。
3月、清朝の廃帝溥儀を元首にした傀儡政権、満州国を建国したのである。

「うぅん、なんで関東軍は、独断で侵攻したんでしょうね」

「そりゃぁ、莫大な資金源が目の前に広がっていたんだからな。満州国成立以前の、張親子が実権を握っていた満州において、彼らの資金源はアヘンだ」

「アヘン? 麻薬ですね」

と聞くと恩田が説明し始めた。

「麻薬と言っても色々ある。芥子の花が咲くとその果実に切り込みを入れて出てくる液を乾燥させて粉末にする。昔の中国じゃ一般的に使われていたんだ。それがアヘン。そこから精製したものがヘロイン。しかし他に多くの成分を含んでいて、モルヒネもそのアヘンから作られるんだ。日本は中国でのアヘン戦争を見て、国内での生産は国の統制化において厳しく取り締まったんだ」

「モルヒネって言えば、戦場で負傷した人が痛み止めに打つ薬ですよね」

「満鉄の当初の資本金は、当時国からの出資の一億円。それにロンドンで社債を売って一億円をあつめ、合計二億円で出発したのよ。それが1920年、33年と継いで1940年には第三次増資で十四億円に膨れ上がっているの。
戦争が拡大していくなかどんどんアヘンの需要が高まってきたのね。そうそう、参考に宝田さんが言っていた新山さんの満州にあった資産はこの平成の価値に換算して一千万円。当時の価値に換算し直すと、二十億円以上の価値があったのよ」(*平成20年企業物価指数1787,0÷昭和20年企業物価指数3,503=210,53倍)

順平にとっては億の単位は実感がわかず、それに十の位が加わるのであるからどうしても驚かずにはいられない。

「え、そんなお金、ぴんと来ないですね。でも、なんで栄治は取りに来ないんでしょうか」

「宝くじだって当っても取りに来ない奴、いっぱいいるじゃねぇか」

恩田は横で笑いながら続ける。

「まぁ、ここまでの春子の側からの調べだと、新山栄治がどうやって財産を蓄えたか、想像できるな。満州ではアヘンを栽培、それを日本の新山薬品に送り、モルヒネを製造、軍に卸していた。
満州では、満鉄よりもむしろ関東軍との結びつきが大きかったんじゃないか。当時の日本軍は大量のモルヒネを必要としていたことだし。GHQが目を着けたのも頷けるな」

美山はPCの画面から顔を上げた。

「そうだ、順平君、倉庫に、『満州開拓公社』の資料がないか探してみたら? 財を成したって言うくらいだから、記録が残っているかもね」

満州開拓公社は、1937年から1939年まで、満州で開拓の支援や現地住民からの土地などの接収を行ってきた、大日本帝国の公設企業である。

順平は数時間をかけてその資料を探し出すと、丹念に読み始めた。

すると満州薬品という名前が見つかり、そこに社長として、新山栄治の名前が載っていたのである。

「あった! 新山栄治。満州薬品社長。所在地は……ツウバケ?」

「通化(つうか)だ!」

恩田が苦笑いで言う。

「そう、通化ね」

美山は何か浮かぬ顔になった。

当時満州国は、中華民国の蒋介石率いる多数の軍閥と軍事衝突が絶えなかったが、1933年の塘沽協定によって停戦を締結、満州事変の軍事衝突を停止させ、華北に中立地帯を設けた。
そうして蒋介石も、抗日より勢力を拡大してきていていた中国共産党の掃討を優先するようになる。

しかし1936年の西安事件を境に、蒋介石と周恩来との合意が成立すると中国共産党は中華民国国民党の八路軍として編入されることになり、抗日統一戦線を組む。
関東軍は満州国の安定化のため華北に工作員を送り込み、軍閥を抱き込み勢力を拡大、物資を確保しソ連の侵攻に備えていた。

1937年7月、盧溝橋事件が起こる。日中両国の駆け引きの後、全面衝突となり、中国側はゲリラ作戦を展開していく。

これを境に日本政府は満州国に在留する日本人保護のため、関東軍に対し朝鮮半島に駐留する日本軍、および本土からの兵力を送り込む。
また事態打開のため訪れていた上海の共同租界地での日本人殺害を決起に、総攻撃に移った。
これが日中戦争である。

1941年6月、ドイツとソ連の戦争が始まると、関東軍は三国同盟に基づいて対ソ連戦参戦を主張、七月には七十万の兵力を集め演習を開始した。
しかし大本営はソ連に対する及び腰とアメリカの経済制裁によって減少する石油の備蓄を回復するため、南方への侵攻を図った。それが1941年12月のマレー半島上陸と真珠湾攻撃である。
そののち西太平洋の制海権を得た日本は南方作戦へと戦線を拡大していく。
日ソ中立条約を当てにしていた大本営は、戦線が拡大するに伴い、関東軍への増強を止め、それどころか関東軍の戦力を南方に振り向けるようになって行き、関東軍は十分な戦力を保持できなくなっていたのである。

「満州で住んでいたところが、その通化っていう街ですね」

「通化事件が絡んできそうね。ところで、順平君。
今度は新山栄治の周り、アヤを調べてみましょう」

「え、栄治の奥さんも、ですか?」

「そうよ。何処に何が隠されているか、全て洗いざらい調べるの。特にターゲットの周辺から。
だいたい、もし、栄治が高石市の新山栄治なら、何時何所でアヤと知り合ったの? 復員して郷里にも寄らず、ほとんど直接アヤと一緒になっているのよ」

順平はそれまでアヤは関係ないと思っていたのである。

     *

二人は新山アヤの郷里、山形県山之辺町を訪れた。今度は東北である。
それも東京から丸一日掛かるほどの山間の町であった。

初夏なので涼しく避暑にはもってこいだが、冬の暮らしを考えると涼しい顔はしていられない。

まず最初に、町役場を尋ねて戦前の資料を漁った。
村役場の戸籍係は二十代の若い女性で、昔のことは何も聴けそうになかった。
ただ暇なのか、資料探しには小まめに対応してくれた。

繭住アヤは昭和2年の生まれ。十八歳のとき、二歳年上の山之内信之助と結婚する。
その後すぐに信之助に召集令状が来、出兵した。
信之助はその後、弘前で編成された第87乙師団に編入され満州へ向かい北部軍に編入されると、通化という街に駐留していたのである。

「通化だ!」

「どれどれ……信之介さん、満州で戦死になっているわね」

美山が書類を覗き込んで言った。

「ね、このアヤさん、新婚ほやほやで夫を兵隊に取られて、その信之助は戦死。ところが戦後すぐに、新山栄治と結婚」

「そうね。で、移り住んだのは、新山栄治の故郷でもなければ、アヤや信之助の故郷でもない東京」

「まぁ、よくある話じゃないかな。あの時代、一人で生きていくのは大変よ」

美山は粗い推理をしてしまわないようにブレーキをかけた。

二人は戸籍に書かれている住所を戸籍係の人に聞いて尋ねてみることにした。
住所を辿れば町からさらに山の中に入ることになった。

そこは寒村とも言える山奥の村で民家の数も限られている。
村の駐在所で場所を確かめると、繭住家はもうなかった。
駐在は繭住の名を聞いて話し始めた。

「たっしか、繭住って家が昔あったけど、戦後まもなく人が絶えたそうな。それ、山之内家の爺さんから聞いたことがある」

「え、どんな話ですか?」

順平は繭住の名から山之内の名前が出てきたことで心臓が高鳴った。
ところが駐在は、

「いやぁ、私には、話せねぇ。山之内家の身内の話だからな」

と、言葉を濁した。

その表情から話したいが職務上控えているようであった。
そこで二人はその山之内家を尋ねることにしたのである。


山之内幸之助は信之助の兄に当たり、家は息子と孫が農業を営んでいた。
広い庭を持つ農家で、庭に乗り付けた軽トラックから降りてきた初老の男に声を掛けてみた。

「すみません。山之内さんのお宅はこちらですか」

「ああ、そうだ」

 そして山之内信之助とアヤのことが聞きたいというと、怪訝な顔つきで二人を見返した。

「まぁ、今更尋ねられてもな。親父も歳だし。叔母の話はあまり良い話じゃないからな」

そう言いながらも渋々と庭の縁側の方へ案内し、奥さんを呼ぶと事情を説明する。
するとその奥さんが幸之助を奥から連れ出してきて、縁側のそばに座らせた。

「あのぉ、おじいちゃん、信之助さんのことを聞きたいんだけど」

老人は暫く黙っていた。

「信之助は死んだ」

老人は履き捨てるように言いたいのだろうが、体が言うことを利かないらしく、痙攣したような仕草になる。

「そうですね」

「満州で死んだ」

「奥さんのアヤさんは?」

美山は探りを入れるように聞く。

「あの、女は、」

老人は皺の寄った顔を変えることができないのか、言葉だけで何かの感情を表している。

「あの女は、弟が戦死したと知ると、すぐに、他に男を作って駆け落ちをしおった」

「駆け落ち?」

美山は話を引き出す為の言葉を継ぐ。

「弟が死んだと解ると、すぐに男を作って逃げおった」

老人の話によると、戦後信之助の戦友から満州で戦死したことが伝えられ、そして暫くしてすぐに、男と一緒に山之内家を飛び出したというのである。

「どこに行ったか、解ります?」

「知らん!」

幸之助の言葉に怒りのような強さがこもっていたが、咳き込んでしまい怒りを思い通りに表せない。
美山はハンカチを差し出してその老人の痰を拭ってあげた。

老人が感情的になりだしたので話はそれで打ち切ることにした。

ただその息子から繭住家のことを多少なりとも聞くことができた。

それによると、アヤと信之助は結婚前から好きあった仲であったが、終戦の前年に召集令状が来るとすぐに結婚し、アヤは山之内家に嫁いできた。
しかし終戦後、信之助の戦友が尋ねてきて、その戦死の報告がもたらされた。
ただその数ヵ月後には、アヤはどこかに男を作り、その男と駆け落ちをしたのだという。

アヤが駆け落ちした後、村では数々のうわさが立ち、居づらい生活が続く中、アヤの兄の戦死も伝わり、とうとう四十年程前にアヤの両親が亡くなると家が途絶えたということであった。


「その駆け落ちした相手の男が栄治ってことでしょうか。だとしたら、アヤは何処で栄治と知り合ったのでしょうね」

順平は美山に疑問を投げかけるが、何かを確信した自信に満ちた疑問であった。

「うん、もう一度、村役場によって、それから東京に戻りましょ」

美山は村役場に寄ると、当時この村にやって来た者がどれだけいたか、引揚者名簿を探し出し、つぶさに調べた。

そして案の定その中から新山栄治の名前を拾い出したのであった。村で引揚者の援助をした際の名簿が残っていたのである。

二人は資料をメモし、東京への最終の新幹線に間に合うように急いだ。

新幹線の座席はガラガラで二人の座った周囲には誰も居なかったので、それでも声を低めて話し出した。

「新山栄治は引き揚げ後すぐにあの山之辺村に現れた。そしてすぐにアヤと駆け落ち……」

順平はいろいろと想像をめぐらして呟いた。

「順平君。もしかして……」

美山も人の極々プライベートなところに入り込んで行ってしまう時の羞恥心に駆られていた。

順平は満州という国が、ブラック・ボックスのように思えてくる。あの国に行った人は、全く変わり果てて日本に帰ってくるように思えるのである。

「信之助と栄治が共通するのは、満州、通化ですね」

「そうね。通化事件は有名よ」

「え?」

順平は隣の席の美山を振り返った。

「二人の息子のうち、忠明は昭和18年生満州生まれ。栄治の連れ子ね。引き上げて来たのは昭和21年。
丁度五歳ごろ。何か覚えていないかしら」

「五歳の時の記憶ですか?」


東京に戻った二人は2B調査室で恩田に相談した。

「あのぉ、栄治の息子の忠明に会って話を聞いてみようと思うのですが」

美山が提案してみた。

「うん。しかし、春子を殺した犯人探しになるのではないか? 時効が成立していることだしな。
そうだ、保険の調査員として面会して事情を聞いてみるって手はどうだ?」

「はい。保険金の受取人を探していると……」

これは2Bが良く使う手であり、その名刺もあり、登記もされており、電話は2Bに繋がるように仕組まれている。
順平はそれを聞いて初めて、初日に電話を取るなといわれた理由が解った。

新山忠明は東京世田谷の一軒家に妻の紗江子と二人で住んでいた。
二人の息子はすでに独立し、一人娘も都内で一人暮らしをしている。
忠明は戦後引き上げて来た後、父栄治と継母アヤのもとで育ち、十八歳の時、多摩地区の食品加工会社に就職、その後会社は中堅の規模まで大きくなり、その役員を務めるまでになったが、一昨年引退。
定年後は夫婦二人で静かな生活を送っていた。

家は何の変哲もない住宅街の中の一軒家であるが、まだ古民家とは呼べない程度に古い作りの家である。

二人は玄関のベルを鳴らした。

「こんにちは。昭和生命の者ですが。ちょっとお話が伺えないかと、参りました」

「はい? 昭和生命さん?」

まず始めに紗江子が出てきた。

全て控えめな仕草は昔の日本の典型的な主婦を感じさせる。
そして静かな家は日中でも明かりがなければ暗く感じる。

二人は狭いながらもアップライト・ピアノの置かれた応接間に通され、古ぼけたソファーに座らされた。

「いま、主人が参りますので」

普段来客もないのか、紗江子はそう言ってうれしそうに接待の茶の準備を始める。

応接間に入ってきた忠明はだいぶ禿げ上がった頭をしているが、まだまだ仕事のできそうな七十歳前の元気そうな男であった。

「初めまして。新山忠明です」

挨拶は典型的な昭和のサラリーマンを思わせる。

「突然お伺いして、申し訳ありません。私、昭和生命の美山洋子と申します」

「梅沢順平です」

二人は名刺を差し出した。
受け取った忠明はそれを膝の前のテーブルに並べて置いた。

「で、私に何か?」

「え、実は、お父様のことでお伺いしたいことがありまして。新山栄治さんです」

と美山が切り出すと、忠明の顔が一瞬曇った。

「実は、保険金の受取人を探しておりまして。その受取人に栄治さんが当たるのではないかと、現在調査を進めています」

「保険金? はぁ?」

忠明は何か慎重に答えようと探りながら聞いているようである。

「栄治さんは、満州にいらっしゃったとか」

「はい」

紗江子がお茶を運んできた。
紗江子はニコニコしながらお茶を三人の前に置く。するとすぐに忠明が、

「お母さん、ちょっと外してくれないか」

と、紗江子を引き下がらせ、出て行ったことを確かめると続けた。

「はい。父は、満州で製薬会社を経営しておりました。私も満州で生まれておりますので」

「ところで、栄治さんが満州にいらっしゃった当時のことをお伺いしたいのです。通化にお住まいだったとか」

「ああ、あの事件のことですか……」

忠明はありありと顔を曇らせた。それはその事件の悲惨さを覚えている証拠でもある。

「思い出したくないですな」

「でも、覚えていらっしゃる?」

「あの当時の通化事件は、いろいろな資料に書かれているはずです。他にお知りになりたいこととは?」

「通化にお住まいだったときの、人間関係とかです」

「あのころ、私は、まだ子供でしたから」

忠明は話をすることを避けている。

「では、引き揚げ後のことでもかまいません。お母さんのアヤさんのこととか」

美山は忠明の気を損ねないように丁寧に、そしてゆっくりと静かに聞いた。

「母は、関係ないのでは? 保険金の受取人は父なのではないのですか?」

忠明は何かから逃げようとしている。
そこで美山は春子の事件を少しだけ出してみようと思った。

「高石市の高鍋春子さんの相続のことも絡んでいまして。旧姓は新山」

忠明は驚いた顔つきになって美山を見つめた。
美山と順平はその顔に明らかな動揺を見て取った。そして忠明も驚きを見られたことを繕おうと視線を落とした。

「何のことですか?」

「高鍋春子」

「知りません。もう時効ではないのですか?」

動揺を露にした忠明は知っていることを白状してしまった。
三人の間に一瞬の沈黙が漂った。

「ご存知なんですね。すみません。私たちは、その犯人を追っているのではないのです」

「じゃ! なんで今更、あの当時のことを蒸し返すんですか!」

「お父様がお受け取りになる権利のある、財産がありまして」

忠明の目が厳しくなった。

「M資金とやらですか。昔良くそんな話が出ましたな」

「いいえ。違います。M資金ではありません。満州時代の新山栄治さんの財産です」

美山は忠明が詐欺とも冗談とも思わずに応対していることに確信を得た。
そして美山と忠明のやり取りを聞きながら、順平は怖くなってきた。
なにかとてつもなく恐ろしい事実が現れてきそうに感じたのである。

「もう、終わったことです」

忠明は満州の財産と聞くと動揺の中から震える声を絞り出した。

「そんな財産、要りません」

「そうですか。すみませんでした」

「もう、帰ってください」

 美山は素直に引き下がった。

     *

しかしその数日後、突然思いがけないところから、栄治とアヤの戦後の一端を聞くことができたのである。

 ある日、2Bの昭和生命に電話が掛かってきた。それは忠明の娘の麻衣子であった。麻衣子の頼みで人気のない場所を選び、新宿のホテルの一室で会うことになった。

新山麻衣子、三十五歳。独身。大手通信会社に勤めている。

高層建築のホテルの一室は、できるだけ寛いで話ができるようにスィートルームにした。
窓から遠くに見える東京多摩地区の風景は、低い建物に覆われて、そこから幾つのも細長いビルが天に向かって突き上げている。

順平は窓際に机を置いて携帯のPCを広げてそれに向かい、美山はソファーに腰掛け、新山麻衣子を待った。

ドアがノックされると、美山が立ち上がりドアを開けて麻衣子を迎え入れた。

「初めまして。お待ちしておりました」

ドアを開けると、初めて見る麻衣子の後ろに、先日の忠明の妻紗江子もいた。

麻衣子と紗江子は黙って会釈で答えると、美山に従い二つ並んだ一人用のソファーに浅く腰掛けた。
座ると正面の窓から東京の景色が見渡せる。

話は麻衣子から切り出された。

「あの、一つお願いがあるんです」

「はい」

「その、先日、父におっしゃった、祖父の受け取る財産のことですが、それは一切必要ありませんので。ただ、そちらで何処まで祖父と祖母のことを調べているのか、お聞かせください」

「解りました」

 美山は確りと麻衣子の目を見て答え、そして紗江子を見た。

「麻衣子さんも、栄治さんとアヤさんのことを、お調べになったのですね」

「はい」

麻衣子は美山の問いかけに素直に自信を持って答えた。

「もうだいぶ前、私が高校生だった頃、祖母に聞いたことがあるんです。二人の馴れ初めは、とか」と、麻衣子は少し笑って美山を見た。
多感な時期には気になることである。

「駆け落ちをしたなんて、今なら情熱的じゃないですか」

美山も優しく笑って麻衣子に頷いた。

「祖父が戦争から帰ってきたら、迎えに来てくれて、そして、東京まで逃げてきたんだって、言っていました」

「ええ、そこまでは調べてあります」

「ところが、その話を聞いてから、時間が合わなくなっていることに気がついたんです」

「時間が合わない?」

「はい。叔父伸介の生まれたのが、昭和24年3月2日。祖父が引き揚げてきたのが、昭和23年10月」

PCへ打ち込む作業を止めた順平はそれを聞いて慌てて資料の中の生年月日を確かめた。

「え、じゃぁ、叔父さんの伸介さんは、アヤさんの連れ子?」順平は振り向いて驚いて聞き返してしまった。

すると麻衣子はそっと頷いた。

「まだ、アヤさんのおなかの中にいたのね」
美山が付け加えた。

「祖母が祖父の引き揚げてきた頃のことを話してくれて、後になって叔父の生まれた日を偶然知って、不思議だなと思い、父に聞いてみたんです。そのとき、父が満州でのことを話してくれました」

麻衣子は父忠明から聞いた満州でのことを語り始めた。

                〈新山栄治ケース・M資金〉第3話へつづく


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