『照星(しょうせい)』 10

午前四時、剛とカッフは再び監視の当番に起こされた。

昨日の定位置に着くと再びスコープで監視しはじめた。
普段の訓練なら眠いと感じただろうが、今は全ての神経が標的に向けられていて苦も苦に思えなかった。
空は黒い夜から深い藍色の空に変わり始め、黒い密林に覆われた地球が藍色の空を背景に丸く浮かび上がってくる。

朝露で湿った顔がべとつく。汗の臭いに蚊が唸った。

密林の中にお盆の底のように開けた農場に靄が流れ込む。
そして肉眼で判別できるくらいに明るくなる頃には、畑も小屋も霧に包まれて隠れてしまった。

しばらくして霧が太陽の光に吸い上げられ始める頃、再びトングがバーディエーとディアンを連れてやって来た。
二人は交代してトングと一緒に丘を降りた。昨日小隊を止めた針金の地点でマジュビ准尉とルイン伍長が話をしていた。

准尉は剛を呼び止めた。

「ヤジマ、付いて来い。カッフ、ヤジマの補助をしてやれ。行くぞ」

昨日の緊張感からすると妙に大きな声で話しかけてくるので、剛は驚いてカッフの顔を伺ってしまった。

「始まったな」

准尉を先頭にルインと二人が後を追った。針金に沿って谷を降り農場へ向かう。谷を越えた西側に集まっている中隊司令部からマルケス大尉やブルゴーニュ大尉ら指令小隊が合流してきた。

同行してきた三人の憲兵も引き連れている。

遅れていた第一小隊と指令小隊は農場の西側に散開していた。マルケス大尉はさらに農場に向かって歩き始めた。
剛とカッフが導くようにその先に出て走り、待ち、また走った。ブルゴーニュ大尉や憲兵隊がその後に続いた。

農場の端に辿り着くと、剛とカッフはルインの指示で木々に身を隠しながら右手に走った。十メートルほど走ると大きな倒木があり二人はその影に身を潜めた。

標的と差ほど落差のない位置は丘の上からより狙いやすかった。
ルインも追ってきて指示を出した。

「これからマルケス大尉と憲兵隊、准尉がゲリラに投降を呼びかける。もしもの時は、私が指示を出す。ヤジマ、用意しろ」

ルインは自分の双眼鏡を覗いた。
剛は銃の脚を広げスコープと弾倉を装填し、遊底を引くと再び押し込んでレバーを倒し、そしてスコープを覗いた。

まだ安全装置は外していない。

「ヤジマ、家屋の入り口と窓を注意して見てくれ。何か見えるか」

すでに靄の晴れた農場は今までよりもずっと大きく見ることが出来、狙いを付けやすい状況になっていた。

剛は円の中の切っ先、照星を使って家屋を捕らえ、順に入り口、窓と辿って標的を探した。
途中に遮るものは何一つない。
照星が何度も同じところを行き来した。
ゲリラはすでに包囲されていることに気が付いているようで、小屋の中にこもってしまい昨夕のような人の気配は感じられなかった。

剛は窓を注視した。

ガラスは張られておらず、窓の上に取り付けられた板が支え棒で押し上げられているだけの粗末な窓だった。
その中は暗くてよく見えないのだが、剛はその窓の中の闇に照星を止めた。その闇の中に、何か自分と同じような人間の視線を感じたからだ。

「窓の奥に、誰かいる」

剛はそう呟くと、金縛りに遭ったように動けなくなっていた。

もし、まだ自分が発見されていないのなら、今動けば発見されてしまうだろう、そう感じた。
自分なら、必ず発見するだろう、そう思うと、微動すらできない。

唾を飲む。

自分自身に恐怖心を抱くように敵が怖い。

風が二人の間に茂った大麻の葉を揺らしていた。

雲の陰がコカの畑の上を通り過ぎた。

その影を落とす雲が天を通り過ぎたその時、光が小さく反射した。

一筋の太陽の光が窓の中に差し込んだのだ。

――いる! 同じ狙撃手。俺を見ている。

太陽は再び流れる雲に隠された。
剛は額をスコープに着けたままの姿勢で、出来るだけ頭も口さえも動かさないように、そっと言葉を出した。

「伍長、窓の中です」

剛は口を動かすのも恐ろしく感じた。

「何かいるのか」

「多分、レンズが…光りました」

ルイン伍長は無線を取り連絡をする。
剛は目を離すことが出来なかった。
剛は命令を待たねばならないが、相手はその命令には束縛されないであろう。

「伍長、奴が狙っているのは、俺です。大尉じゃありません」

「ツヨシ、続けられるか」

ルインは名前で声を掛けた。

「はい」

――多分、機会を伺っているンだ。奴が先にはじめるか。その最初の一撃は、俺に来る。それが奴らの始まりだ。命令が出たら、奴がそれに気づくまでの時間が勝負だ。どっちが先に引くか…

耳を澄ました。
極度の緊張で腹筋が振るえても嗚咽は無理にでも抑えた。

冷たい汗が左瞼に流れ落ちて滲み込む。

雲が通り過ぎ、再び光が窓に差し込んだ。

今度ははっきりと見えた。やはり相手はスコープの付いたライフル銃を構えていた。
ただ銃口の先端には消炎器が付いていないようなので、もしかしたら狩猟用の銃かもしれない、と短い間でより多くの情報を集めた。

――猟銃だとしたら、距離は二百メートルだからここまで届かないかも知れない。でももし軍用銃だとしたら…

恐怖心と好奇心が入り混じった考えが交錯した。相手を見てみたい、と思ったのだ。自分に打ち勝とうとする自分がそこにいる。

――奴は俺だ。奴が先に撃つかも知れない。

今にも駆け寄って確かめたかった。どんな奴だろうか、確かめたい、そんな騒動に駆られた。

消えた。窓の奥から覗いていた狙撃手が室内の奥へ消えたのだった。

安堵感があふれ出した剛はスコープから額を離して地面に額を着けると、大きなため息をし力が抜けていくのを感じた。

遠くから拡声器で呼びかける声が響き渡った。

投降を呼びかけている。

剛はまたスコープを覗いてみた。
農場に、密林に、緊張が走るのが見て取れた。
まだ奴は居るだろうかという期待が強く照星で窓を捕らえると、ほぼ同時に、その狙撃手も窓の奥に現れた。

顔までははっきりと解らなかったが、今度は明らかに銃口が剛の方を向いていたのだ。

二人の視線が一直線に繋がった。

――怖い。

呼吸を整えた。大きく吸って、吐く。

命令はまだ出ない。

――マジュビは、マルケスは、ブルゴーニュは何をしているンだ!

互いの視線は外れない。吸って、吐いて、吸って、吐く。

――小隊は!

ルインの、ベルーの、カッフの、小隊の仲間の顔が見えた。

心臓の音が伝わってきて、そのリズムと重なった。

――撃ちたい。撃ってこの怖さを消し去りたい。終わりにしたい。

足も腰も腕も髪も消えて密林に溶け込み、引き金に掛けた冷たい指先だけが命令を待った。

二人は照星を重ね合わせた。

吸う、吐く、吸う、吐く…命令はない。

断ち切ったはずの父親や母親の顔が見えた。

振り切ってきた恋人の顔が見えた。
両親に対する自信が沸き起こった。生まれたのか産んでもらったのかということよりも、自分の意思で生きている自信だった。

もう一度吸う。

 ドン!

突然銃声がした。

剛はまだ生きていた。

撃ったのは二人ではなかった。

窓の中の狙撃手は銃を引っ込めた。

銃声がねじれながら空の風に流されていく。

「あれは 鳥を撃ったりする散弾銃だな」

横でカッフが人事のように呟いた。

拡声器の声も止んで、密林の中に静けさが戻った。

剛は構えた腕の中に顔を埋めて、生きている自分が嬉しくて、目に涙が滲み、胸が震えた。

                    つづく

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