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異物を定義する(異物について・01)

「異物について」という連載をはじめます。私は連載が大の苦手なのですが、やってみます。今回は、異物を定義してみます。


異物を定義する


 文字どおりに取ってくださいーー。

 猫とはぜんぜん似ていないのに猫であるとされて、猫の代わりをつとめ、猫を装い、猫の振りをし、猫を演じている。そんな不思議な存在であり、私たちにとってもっとも身近な複製でもある異物。

 いま、あなたの目の前にある物です。

感じる、知る、分かる


 そうです。文字のことです。

 異物を定義するさいに、「異物とは」ではじめて、「である」というふうに話を運ぶのでなく、異物を感じ取っていただく方法を取りました。

 私はつねに感じたいと思って生きています。知りたいとも分かりたいともあまり思いません。知識や理解には関心が薄いのです。

 その代り体感したいという気持ちは強いです。

 そんなわけで、異物を上のように定義しました。

猫があるのは猫がいないしるし


 この章の見出しは「猫があるのは猫がいないしるし」です。これも、異物である文字の簡潔な定義だと思います。

 感じていただけたでしょうか?

     *

・「猫があるのは」

 猫が「ある」と書いてあるわけですから、生きている猫を指すのではないでしょう。

・「猫がいない」

 猫が「いない」と書いてあるわけですから、これは生きている猫を指しているはずです。

・「しるし」

「しるし」ですから、「めじるし」みたいなものでしょう。「あかし」とも取れます。

     * 

(目の前に)猫があるのは猫がいないしるし
(目の前に)猫という文字があるのは猫という生きものがいないしるし

 このように並べるとさらに感じやすいし分かりやすいかもしれません。

 または、

「猫」があるのは猫がいない「しるし」
「猫という文字」があるのは「猫という生きもの」がいない「しるし」

 私は約物も文字だと考えているのですが、かぎ括弧はじつに頼もしい文字だと思います。

     *

 そうなら、最初から「猫という文字」「猫という生きもの」と書けばいいじゃないか。

 そういう意見もあるでしょう。でも、それでは私の思う「感じる」にはならないので、そういう書き方はしませんでした。

異物をふたたび定義する


 文字どおりに取ってくださいーー。

 猫という生きものとはぜんぜん似ていないのに猫であるとされて、猫という生きものの代わりをつとめ、猫という生きものを装い、猫という生きものの振りをし、猫という生きものを演じている。そんな不思議な存在であり、私たちにとってもっとも身近な複製でもある異物。

 いま、あなたの目の前にある物です。 

     *

「あなたの目の前にある物」は駄目押しです。あなたの目の前にある物は液晶の画面であり、そこにある「猫」はその画面に映っている「猫」しかないからです。

 猫しかいないではなく、猫しかないです。

 猫なのに、猫ではない

 これが文字というものなのです。同時に文字のありようなのです。

 いま、あなたの見ているモニターに猫はいますか?

 日本語の言葉のをもちいると、文字ありようがありありと感じ取れるような気がします。

 文字は綾なのです。

文字という言葉で文字を語る


 文字というものなら「文字とは」「である」という流れで語ることができますが、文字のありようは、いまやったような方法で文字にするのがいちばん感じ取れやすいと私は思います。

 ぎゃくに言うと、文字は文字という言葉をつかうと感じ取れなくなります。文字という言葉が文字というものを見えなくしているからです。

 そもそも文字というのは、文字が指ししめすものを見えなくするためにあるのです。文字を文字として見ていると、文字が指ししめすものが見えなくなのは、だまし絵に似ています。

     *

 猫を猫という文字として見てください。猫という文字、つまり活字の模様()や形やたたずまいに意識が行くと、その瞬間に猫という生きものが頭に浮ばなくなります。

 そのため、文字の話をするさいに文字という言葉を出さずに、猫という文字に語らせたわけです。犬でもよかったという意味です。

文字を異物を呼ぶ


 ここで文字のことを異物と呼んでいるのは一種の異化だと言えるかもしれませんが、文字どおり文字は異物だと私は感じています。

 文字を異物だと感じているからこそ、「異物について」という連載をはじめたとも言えます。

 文字の異物性については、少しずつ話していきます。

区別しない、区別するのは普通ではない


 猫なのに、猫ではない
 猫であって、猫ではない

 以上のことが起きるのは、猫という文字と猫というもの(猫という生きもの)が区別されていないからです。

「猫という文字」と「猫というもの(猫という生きもの)」を区別したことがありますか? 区別していては、日常生活は営めないでしょう。

     *

 猫に限らず、普通は(「普通は」はきわめて曖昧な言葉ですけど)「○○という文字」と「○○というもの(○○という文字が指ししめすもの」を区別しないし、だいいちそんな言い回しをいちいちしません。

「○○という文字」と「○○というもの(○○という文字が指ししめすもの)」とを区別するのは普通ではないのです。

 いわゆる、まっとうな生活や、まともな生き方をするためには、そんな区別をするべきではないと言えます。

だから異物/なぜなら異物


 そんなわけで、文字はないがしろにされています。

 文字はないものとして見なされているとも言えそうです。ふだん文字が文字だと意識することがどれだけありますか?

(飛躍と短絡しますが)だから、文字は異物なのです。
(あるいは)なぜなら、文字は異物だからです。

 ヒトになじんでいないのです。なついてもいません。なれてもいないという意味です。でも、つかっているのです。

 できれば文字なんてなければいいと思っている人はたくさんいるような気がします。

     *

 言葉で現実が操れるとか、言葉と現実は対応していると思っている人には、言葉の使用が隔靴掻痒の遠隔操作であることが、目に見える形であらわれている文字の存在は、いらいらするし悔しいにちがいありません。

 言葉があるなんて悪夢だ、悪い冗談か出来の悪いギャグにちがいない、
 自分と現実とのあいだに言葉があるという、現実=悪夢から目を覚ましたい、

なんて声が聞こえそうです。

     *

 現実と向きあっているつもりが、言葉と向きあっている。
 現実の複雑さを相手にしているつもりが、言葉の綾にからめてとられている。
 ○○学と取り組んでいるつもりが、○○学特有の言辞と修辞を弄している。

     *

 目の前にあるものを文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
 目の前にあるものを文字(letter)として見ることから、文学(letters)が始まる。
 文字(letter)は、ごみ(litter)に似ている。 ⇒ 「分別」

 半分冗談はさておき(半分は本気です)、ここで裏話をします。

であって、ではない


 猫なのに、猫ではない
 猫であって、猫ではない

 じつは、上の異物の定義には下敷きがあります。

「自由」と錯覚されることで希薄に共有される「不自由」、希薄さにみあった執拗さで普遍化される「不自由」。これをここでは、「制度」と名づけることにしよう。読まれるとおり、その「制度」は、「装置」とも「物語」とも「風景」とも綴りなおすことが可能なのものだ。だが、名付けがたい「不自由」としての「制度」は、それが「制度」であるという理由で否定されるべきだと主張されているのではない。「制度」は悪だと述べられているのでもない。「装置」として、「物語」として、不断に機能している「制度」を、人が充分に怖れるに至っていないという事実だけが、何度も繰り返し反復されているだけである。人が「制度」を充分に怖れようとしないのは、「制度」が、「自由」と「不自由」との快い錯覚をあたりに煽りたてているからだという点を、あらためて思い起こそうとすること。それがこの書物の主題といえばいえよう。その意味でこの書物は、いささかも「反=制度」的たろうと目論むものではない。あらかじめ誤解の起こるのを避けるべく広言しておくが、これは、ごく「不自由」で「制度」的な書物の一つにすぎない。
(蓮實重彥「表層批評宣言にむけて」(『表層批評宣言』所収・ちくま文庫)pp.6-7)

 以上の文章なのですが、そこにかぎ括弧付きで出ている「自由」「不自由」「制度」「装置」「物語」「風景」「反=制度」という言葉は、文字と置き換えてもいいように私には思えます。

     *

 文字は、「自由」「不自由」「制度」「装置」「物語」「風景」「反=制度」なのです。(つまり、「自由」「不自由」「制度」「装置」「物語」「風景」「反=制度」は、文字なのです。)

 試しに、引用文の「 」の中をぜんぶ、文字――頭の中で「文字というもの」または「文字という文字」を意識しながら――に置き換えて読んでみてください(尊敬する先生の文章なので、ここではいじりませんけど)。意外と言えているのではないでしょうか?

     *

 ややこしい言い方になりましたが、具体的に言うと、

自由文字」「不自由文字」「制度文字」「装置文字」「物語文字」「風景文字」「反=制度文字

と、頭の中で置き換えて読んでみるのです。ただし、ゆっくりとやってみてください。

 たとえば、「自由文字」であれば、「自由」と「自由という文字」が一瞬のうちに交互に入れかわりませんか? 

 それが具象(文字)と抽象(意味や観念)を行き来するイメージなのですけど。「(目の前の)ここ」と「(ここではない)向こう」を行き来する感じ。

     *

 もし入れかわったなら、それです。あくまでも頭の中での話ですよ。万が一、気分が悪くなったら、ただちに中断してください。人それぞれなので。

 ルビ(比喩です)を「文字」ではなく「言葉」としても、異化(いまやっているのは一種の異化なのです)できると思います。

 イメージとしてはそんな感じなのですが、上で私の言ったことを「理解する」というよりも「感じ取る」ことができるかもしれません。

     *

 妙なことをさせて、ごめんなさい。

 ふだん私が頭の中でやっていることなのです。こんなふうにして、具象と抽象、日本語と英語、和語と漢語のあいだをよく行き来しています。

 どちらか一方にとどまらないのがコツです。どちらかに固定するのではないのです。宙吊りになって着地しない感じ。⇒ 「宙吊りにする、着地させない」

     *

文字は、

文字というもの

であり、同時に

文字という文字

です。

 念のため。

     *

 大切なことは上の引用文では、

であって、でない

という言葉の身振りがセンテンスごとにくり返されていることです。さらにはその段落全体の身振りにもなっています。

 上の文章はそういうつくりの「装置」なのです。

 この点については、以下の記事で詳しく話しているので、よろしければお読みください。

でありながら、ではなくなってしまう


 同じ書き手による、もう少し読みやすいと思われる文章もあります。

 こうして安岡的「存在」の多くは、避けようとする身振りそのものによって、避けるべき対象と深く戯れてしまうというパラドックスのさなかに生きることになる。『月は東に』の冒頭のジェット機は、なんとか逢わずにいたい男が間違いなく待ち受けているはずの羽田空港へと、一直線に太平洋を越えてゆくではないか。だから、真に安岡的風土に置かれた存在は、逃げていたはずのものによって執拗に視界を立ちふさがれるので、その目の前の風景の遠近法はたえず狂っていることしかない。そのときそこで息をつめ、瞳をふせ、足音を殺していることは、無防備のまま世界へと埋没していく溺死志願者の仕草にほかならなくなる。存在を希薄にする試みは、一変して外界の諸要素が最も深く体内に浸透する格好の身振りとなり、逃げるための足ならしは、かえって世界の中核部へと一挙に突入する準備運動になってしまうだろう。
(蓮實重彥「安岡章太郎論 風景と変容」(『「私小説」を読む』中央公論社)所収・p.176)

 この引用文では、

でありながら、ではなくなってしまう

という言葉の身振りがくり返されています。

     *

 猫でありながら、猫ではなくなってしまう

 猫でないのに、猫を見てしまう
 猫はいないのに、猫を見てしまう

 以上を言い換えると、たとえば以下のようになります。

・猫という文字で猫を思い浮かべながら、(猫という文字を意識したたとんに)、猫という生きものが意識から遠のいてしまう

(これをぎゃくに言うと、下の言い方になります)

・猫という文字に、猫という生きものを見てしまう
・目の前に猫はいないのに、猫という生きものを思い浮かべてしまう

 文字は錯覚製造装置なのです。猫が猫に(「猫」が猫に)似ていますか? それなのに猫としてまかり通っているのです。猫もびっくりの曲芸。

     *

 しかも、この錯覚製造装置の習得は誰にとっても大優先事項なのです(この私もかなりの時間と労力とお金をかけて学習し、いまだに学習し終わっていませんし、毎日お世話になっております、いまのこの時点でも)。

 ただし、ヒトは文字が錯覚製造装置であることを認めたがりません。認めたくないのは、この錯覚の仕組みで文化と文明を築きあげた、それなりの実績があるからでしょうが(この装置のうまくいかない部分は忘れるようにヒトはできているようです)、それにもましてホモ・サピエンスという名称(実体でも実態もなく言葉です)があるためだろうと思います。

 言葉(レッテル)は力なり、錯覚は力なり。

 隔靴掻痒の遠隔操作ではありながら(世界と無媒介的に触れていないという意味です)、そこそこの多幸感をもたらすので嗜癖し依存しているのでしょう。自分を観察しているとそうとしか思えません。

 人類のレベルでも、各個人のレベルでも、ここまでこうやってやってきたのですから降りられません。それが人情というものです。

 くり返すというよりも、くり返してしまうのです。

     *

 話を引用文にもどします。

・避けようとする身振りそのものによって、避けるべき対象と深く戯れてしまうという
・逃げていたはずのものによって執拗に視界を立ちふさがれるので、その目の前の風景の遠近法はたえず狂っていることしかない
・そこで息をつめ、瞳をふせ、足音を殺していることは、無防備のまま世界へと埋没していく溺死志願者の仕草にほかならなくなる
・存在を希薄にする試みは、一変して外界の諸要素が最も深く体内に浸透する格好の身振りとなり、逃げるための足ならしは、かえって世界の中核部へと一挙に突入する準備運動になってしまう

 こうした身振りは、生きていない物である文字を目の前にして演じてしまう人間の身振りに酷似しているように私には見えます。

つまり、

「……であって、……ではない」という、生きていない物の身振りを目の前にして、「……でありながら、……ではなくなってしまう」を演じてしまう人間の身振り――です。
 

     *

 この引用文については、以下の記事で詳しく話しているので、よろしければお読みください。

異物の異物性


 なぜ、文字が異物なのかについては、次回の「異物の異物性」という記事に書くつもりです。

 ところで、この記事のなかで猫という文字をいくつつかったことでしょう。でも、一言も猫については語られていないのです。

 猫にハッシュダグはつけませんでしたが、猫をキーワードに検索してここにたどり着いた方、ごめんなさい。猫という文字に興味のある方、いらっしゃいませ。

 ですから、ある文字をキーワードにして文章をさがすさいには気をつけなければなりません。

 ある文字をキーワードにして文章を探しだし、その文章を読んでいても、その文字が指ししめすものについて語られていない、なんてざらにある気がします。

 しかも、読んでいる人がそれに気づかないのです。とくに固有名詞、とりわけ人名と作品名と著作名(どれもが文字ですよ、念のため)が出てきたときには眉に唾をつける必要があります。ご経験がありませんか?

     *

 ようするに、

○○という文字や文字列があることと、○○について語られているのとは別なのです――。感じ取っていただけたでしょうか?

 たとえば、こういうところが文字の異物性なのですが、そう考えると文字は魔物だという気もしてきました。

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(つづく)

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