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天気に心を惹かれるのは空調機に対する必死な抵抗なのかもしれないと思った.

 俺のなかで14歳〜16歳くらいの記憶は結構抜け落ちていてあまり覚えていないんだけど,でもふとその頃の走馬燈が脳をよぎるとすごく写真的な構図なんだよね.引き気味な画角で.たしかに16歳くらいまでは空調への奔走を表に出していなかったので,ただの生徒会の奴という感じだったんだろうけど,そのころは別に天気なんて意識していなかったし,心の中で空調に対する情熱は燃えてはいたんだけど表面的には生徒会に走ってたからだろう.

(面白いのが,学校で「小林ってどんな奴ですか」ってきくと,たぶん9割くらいの奴が「生徒会の奴です!」と言って,学校外では9割5分の人が「空調の変態です!」と言うと思うのでそこそこギャップがある.そりゃあ校外で生徒会の傷の舐め合いするの嫌いだし,校内で中途半端に理解されないならば最初から理解されることを求めないので当たり前なんだけど.)

 そして今年の3月以降,つまりコロナ期間に突入したあとは外出時間がぱったりと少なくなって,その頃の記憶だと色々と心情的な動きはあったんだけど,人間とその背景の空の色とかその時の空気感とかがうまく切り取られて残っている.何故天気を意識するようになったのかなあと考えたんだけど,
天気はアンコントローラブルな偶発性と愉しみがあって,
空調はアンダーコントロールな正確性がある.言い換えれば人間のための人間による自然状態を空調機が作り出しているわけで,それを究めるのが空調界隈の流れだと思うんだよね.

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 空調機の人間のための人間による自然状態,つまり外がどれだけ暑かったとしても,清々しい空気だったとしても,アンダーコントロールの空調の下に身を置いている人間にはそれを感じさせてはいけないわけだし,きっと感じることはできないだろう.空調は良くも悪くも意味で自然をねじ伏せる.ねじ伏せた自然を空調機が作り出す自然で救済しようとする.それが空調の複雑性.

 それを感じ始めてから,天気に対して僅かにも対抗できない人間の微力性に萌えながら天気に心を惹かれ天気を愛しているのは自分の空調に対するなんらかの必死な抵抗なんだろうと思っている.それは梅雨だからとか,どうもそういう感じではない.少なくともこれまでにはなかった.
空調の何に対する抵抗なんだろうか-空調機は地球環境が悪くなるほど売れる機械でもあるんだけど,空調機自身もそれに加担しているという罪.ここらへんなのかなあ.そんなことを考えながら朝の空気感を全身で感じに行きたい.俺は何も知らないので.知らないでいたいので.

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