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さよならは別れの言葉じゃなくて

この平田さんのツイートを何度も反すうするかのように読み返しています。

お金を「使う」(「払う」のでもなく)「渡す」という感覚。製品やサービスを受け取った際にお金を「渡す」。「渡す」という言葉をベースに考えると、その渡されたお金、は製品・サービスの提供者の関係者(仕入先や従業員、ビジネスパートナー、金融機関等)に対して分配された後に、通常であれば、提供者の手許に利益が残る。それが株主に分配されることもあるけど、一部(あるいは全部)が次の製品・サービスの提供に再度投じられていく。そうして、より新しい製品・サービスが登場したりして、渡したお金が再会、再びの出逢いにつながっていくこともある。お金を「渡す」という感覚になれるのは、その製品・サービスにいくらかでも特別なものを感じ、そこに「出逢い」を感じるからじゃないでしょうか。もう一回逢えたらいいなあ、次の出逢いが待ち遠しいなあ、そんな想いが「渡す」につながる。お金を「渡し」た後、「その先」がどうなっているんだろう、という想像を掻き立てられるのも「渡す」という感覚を生み出したりするかも。

そんなことをつらつら考えていたら

さよならは別れの言葉じゃなくて
再び逢うまでの遠い約束

http://j-lyric.net/artist/a000bb5/l004b7f.html

って歌詞が降りてきました。

そうだよね、って思いました。お金を「渡し」たところで、そこで終わることもあるかもしれない、けど、いつか逢えるかもしれない、逢いたいなあ、そんな約束が「お金を渡す」という表現にはあるような気がしたのです。

もちろん、全ての消費活動で「お金を渡す」という感覚を持つことは不可能だと思います。でも、「お金を渡す」という体験、「もう一度逢いたいなあ」という気持ちでその体験を重ねることで、ステキな出逢いの可能性が広がっているのではないでしょうか。

だから「誰に」はとても大事なことになってくるんだと思います。「もう一度逢いたいな、逢えたらいいな」の「その先」に居るのは、きっと共感できる考えを持った人たちでしょうから、きっと。

投資信託でも「お金を渡す」という感覚は大事なことだと私は考えています。当然、「その先」に居る人たちがどんな人たちなのか、どんな考え方を持っているのか、それを納得、理解できるか、共感の域まで達することができるか、って。

「お金を渡す」という感覚を持つことが、ステキな出逢いの可能性を広げてくれる、私はそう思います。


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