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「ホクホク」ってなんだ?

話し言葉、書き言葉に限らず「〇〇〇をしてホクホクな気持ちになりました!」というように何か特定の感情に向かって「ホクホク」を使う人がいる。ものすごく新鮮だ。どういう意味なんだろう、どういう気持ちを表しているんだろう、と毎回考えている。

というのも、私にとっての「ホクホク」は茹でたてのじゃがいもとか、グツグツと沸き立つ鍋の中で真っ赤にできあかったカニの身を表現する言葉なのだ。どちらも真っ白な湯気がモクモクと立ち上がるような、できたての食べ物たち。私にとって「ホクホク」は食のオノマトペなのだ。

これを感情表現に使う人がいることを知った時はかなり驚いた。本人に確認したことはないけれど、文脈的には良い意味で使っているように思う。どうしても手に入れたい小さな雑貨があり、それを無事に購入して「ホクホクな気持ちになった」とか。会いたい人に会って話ができて「ホクホクになって帰りました」とか。

私が食と結びつけているからかもしれないけど、いずれもあったかい気持ち、満たされるような感覚を表しているように思う。

それにしても、自分の言葉で「ホクホクだなぁ」と口にしたことはこれまでにない気がする。私には口馴染みのない言葉だ。

こういう、自分のボキャブラリーにない言葉はどうしてもピンセットで丁寧につまむようにしてじっくりと眺めたり、考えたりしてしまう。そしてやっぱり意味に引っ張られている。発言した当の本人はもしかするとそこまで深く考えいないかもしれないのに、私だけひとりその場に立ち止まって考えてしまう。

こうしてなんでもかんでも意味を求めてしまうのは、一種の病のような気がする。職業病だろうか。

今読んでいる千葉雅也氏の『センスの哲学』には、ざっくり言うと「意味を求めすぎるな、『リズム』を感じよ」ということが書かれている。
例えばものすごく抽象的な、一見何が描かれているのかわからない絵画を目の前にして、「ここになぜ赤色を使ったのか」「モチーフは何なのか」「この絵で作者は何を伝えようとしているのか」といったそこに意味を求める見かたではなく、筆のタッチ、色の濃淡、キャンバスの左右で比較したときの色の重なりの比重といった、「リズム」を感じよ、と千葉さんは説く。そこから「センス」というものへの自覚は始まる、と。

芸術において「意味」から逃れるようとするムーブメントもかつてあったそうで、千葉さんは本の中でそれを「モダニズム」と紹介していた。意味にこだわりすぎない動き。活動。

千葉さんはさらに、そこへ追加して「音楽や文学は難しいかもしれないけれど。だって意味がないと伝わりにくい媒体だから」というような補足も入れる。音楽も結局意味不明な、明るいのか暗いのかわからないようなもの、ビートも拍子も不明なものはよほど好みじゃない限り、人は聞けないと言っている。言葉も意味を伝える手段そのものであるから、支離滅裂なものをつくるのは難しいと。

その点、絵は比較的意味からの逃避がしやすいとも書かれていた。なぜならどれだけカオスでも、絵はキャンバスという物理的な制限があるから。どれだけ意味不明でも、意味不明な対象は額縁の中に収められている。だから視覚や身体と切り離して考えやすいのではないか、というようなことも書いていた。

まさにそこなのだ。

私が去年からずっと抱えているジレンマはここにある。言葉はどうしても、意味が伝わらなければ無用の長物になってしまう。言葉が成立するということは、意味が発生しているということだ。

そこがもどかしい。言葉を使いつつ意味から逃れることは、ほとんどできない。
どれほど逃れようとしても。

しかし先の「ホクホク」にしろ、何でもかんでも意味を見出そうとする私の性格はほぼ病的と言える。危機感さえ感じる。だって他人にもそうやって意味を求めることもあるんだもん。それで何度か人を傷つけたこともある。

言葉も、意味なく伝えることができたらどんなにいいだろう……と心から思う。今は試行錯誤している最中だ。言葉という、意味の殻に一生閉じ込められる存在を、意味から剥がし、それでいて空中分解せず人に伝わる方法。

絵を描くように言葉を書きたい。しかし「ホクホク」という言葉の意味をいちいち考えているうちは難しいだろうな。

千葉さんの本をもうすこし読み進めて、『センスの哲学』で文学における「脱意味化」はどういうことなのか、どうすれば可能なのかをもうすこしじっくり考えてみたいと思う。

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