芸術とスポーツと文学の符合する点について
小林秀雄の「人生について」の「スランプ」の章のくだりを改めて読んだ。
プロ野球の名選手は、「スランプが無くなれば、名人かなーーこいつは何とも言えない。だが、はっきりした事はある。若い選手達が、近頃はスランプだなどとぬかしたら、この馬鹿野郎という事になるのさ。」
その道の上手にならなければ、スランプの真意は解らない、という。
プロとして、スランプの何たるかを解しないでは相済まぬ次第だろうか、という。
ひと昔前の芸術家は、好んでインスピレーションという言葉を使ったが、今ではひどく詰らぬ言葉に成り下がって了った、という。
芸術という極めて意識的な仕事の中に、霊感というような漠然とした観念は、這入り込む余地はない、という。
文学の魅力は、元来、スポーツと同じく、高度に「肉体」に関わる芸であり、「肉体」というものは、自分のものでありながら、どうしても自分の言う通りにいかない苦労から、夫々「魅力」の性質がある、という。
その文学の「肉体」は、自分が使っている「言葉」だという。
「書く」とは、分析することでも、判断することでもなく、言わば、「言葉」という球を正確に打とうとバットを振る事だ、という。
思うに、芸術もスポーツも文学も、「表現の自由」の下に、根源的な部分での「規制」や「批評」等に似つかわしくはないだろう。
その「自由」の名の下で、「プロフェッショナル」は「どうしても自分の言う通りにいかない苦労」を見事に「コントロール」して、卓越した「表現」のできる「プロフェッション(職業)」で生きている。
そして、「プロフェッショナル」には、「The more he gets, the more modest he is(その道を究めるために、得れば得るほど謙虚になる).」という精神が宿っているものであろう。
「世界のイチロー」が象徴的だ。
私に出来ることとすれば、せめてもの「Language of control」、「Good command of words」。自分の「言葉」を大事にしたい、というレベルだとひしひしと感じている。
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