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「何者かになりたい」という欲望

どうも。
タイトル通りです。

まだ元気で、お酒もガバガバ飲んでいた時、飲み会の席で友人が言い放ったんです。
「俺はどうせ何者にもなれない」

私は彼の嘆きを聞いてホッとしたのでした。
「あぁ、私だけじゃないんだ」と。


何者かになりたい。

何も持たずに生まれてくるなら、生きているうちに人々から羨望されるような立派な人になって、お金持ちになりたい。

ところかしこに生えている、見分けもつかない雑草ではなく、
一本だけ可憐に伸びるたんぽぽになりたい。桜の木になれたら最高だと思う。

なぜって?
そんな人生が幸せそうだから。

人からちやほやされて、素敵な友達や家族ができて、お金をたくさんもらって、何不自由ない人生のように思えるから。


でもね、ふと考えたんですよ。
私、貧乏の暮らしは知っているけど、裕福や有名な人の暮らしを知らないなって。

今、私は貧乏で無名だからこそ得ている自由がある。

顔を晒して歩いても誰にも認識されないし、電車にも乗らず荷物も少ないから盗難のターゲットとはなりにくい。
公園に行って寝っ転がっても「ちょっと変な人」と思われるだけだ。
お金の制限はあるが、自由に過ごせる。

もしも有名人だったらどうだろう。
天気が良い日でも帽子を深く被り、マスクをして顔を隠すだろうし、
身なりから盗難のターゲットになるのだろうか。

先日大谷翔平選手の通訳、水原氏が大谷選手の口座からお金を盗んでギャンブル費に充てていたニュースが流れたけど、
そもそも貧乏なら何億もの大金を盗まれようがないし、こういう邪な思いを腹に抱えている人は寄ってこない。メリットにならないから。

水原氏のストレス、心情は計り知れない。
あれだけの有名人の付き人として著名になり、公私を支えるのは大変な心の負担もあったと想像する。
奇しくも日本で一番有名となる選手の通訳となり、それに引っ張られる形で有名になった彼は幸せだったのだろうか。

あんな奇異な形で有名になったから、依存症が加速したのだろうか。

もし彼が何者にもならず、たまにパチンコでもして大量に負けて、家族に多少の迷惑をかけてギャンブル依存症の更生施設にお世話になった人生だったとしても、今よりはずっと良かったはず。


紀元前の思想家、荘子が役人の誘いを受けた時、野生の亀に喩えて
王の前に飾られる綺麗な剥製になるなら、
泥の中で気ままに生きたほうがいい

なんて言ってたっけ。

何者かになったら、人がたくさん寄ってくるだろうが、その中で誰が本当に信用できるかなんて、人間にはわからない

正確に言うとその亀は殺され、占いの道具となったらしいけど、
綺麗だとか、素晴らしいとかで担ぎ上げられても、世間の好奇の目に晒される剥製のような人生では心が死ぬ。
元々そんな大層な人間じゃないんだから。
自由気ままに泥水啜っている方がかえって幸せかもよ

なんて思ったのでした。

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