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読書の感想 好きなマンガとリアル麻子季晋

ゾルタン・レンゲル(Zoltán Lengyel)の動画を鑑賞。
付されたコメントは下記。

1980年代半ばに彼のこのピアノ協奏曲のコンサートを聴いたのは、私にとって忘れられない、人生を形成するような経験でした。そして、私が彼にレッスンを頼んだとき、彼がOKしてくれたのは、私の人生の最高の瞬間の一つでした。2008年に私たちはナショナル・フィルハーモニー管弦楽団のリハーサル室で演奏しました。 残念ながらカメラのバッテリーの都合上、全てを撮影することができませんでした。 今(2016年11月)、私はまだ彼の逝去に深い悲しみとショックを受けています(私にとってそれはとても突然で、2012年の手術後はほぼ大丈夫だと思っていました)。 おそらく他の人たちと同じように、私は彼との思い出を振り返り、砂をつかみ、時間を巻き戻せたらいいのにと願っています。「ゾリ、私はまだあなたと話さなければならなかった、あなたの話を聞く必要があったでしょう」 

動画はラフマニノフのハ短調協奏曲、コチシュはオケパートを弾いています。コチシュは2台ピアノ版の楽譜を譜面台に広げて、弾いています。ソロが休みのときはソリストがコチシュの譜めくりをしています。大変スリリングな動画は通しで最後まで突き進みます。

レンゲル氏が演奏に接した1980年代、わたしはこれと同じ風景をくらもちふさこの「いつもポケットにショパン」で見聞しました。
読後何年か後、その感想を綴りました。真面目にクラシック音楽と向き合っていたと感じます。

須江麻子を知っていますか

 すこし恥ずかしい話題ですが、お気に入りの「いつもポケットにショパン」が何度目かの復刻なりました。やはり傑作と思います。あの頃のくらもちふさこはとにかくノッテイタ。「おしゃべり階段」「いろはにこんぺと」などどれも大傑作でしょう。
 この類の作品の必須条件は、「読む者を切なくさせることだ」と誰かに聞きましたが、再読の度、作者のストーリーテリングに引っかかって主人公と一緒にハラハラドキドキ、ホロリと泣かされてきました。
 粗筋は、高名な女流ピアニストを母にもつ主人公は、母の敷いたレールにのって無為に音高に通う毎日。ライバルや幼なじみとの確執、死んだと聞かされていた父との再会を通じて成長し、幼なじみや母親と和解し音楽家になる決心をするまでの物語です。
 事始の耳にとって、クラシック音楽は音の抽象的アクロバットが過ぎ、何を聞いても、言葉にならないもどかしい感動しかなかった頃----この作品と出会い、以来わたし自身が音楽好きになりました。今でも「須江麻子」と共に育ってきたつもりです。専門家が読めば荒唐無稽?と笑われるかもしれません。(ラフマニノフの第2協奏曲のピアノ伴奏版くらいあるにちがいないし、いわゆる天才少年少女には弾ける曲だろうし)今でも時折ラフマニノフの第2協奏曲やショパンの第3ソナタを聞くのは楽しみ。ジャケットはリヒテル、ポリーニだが目を閉じると「須江麻子」の演奏に変わります。この数年フォトジェニックな若手日本人演奏家のCDを見る度にもしや「須江麻子」も、と探してしまいます。
 「いつもポケットにショパン」は、恥ずかしがり屋にして照れ屋という日本人の性格をテーマのひとつにしており、「須江麻子」がいかに他者に対する表現の手段を手にいれていくかが、丹念に描かれて何とも興味尽きません。もし何か楽器を練習したことのある人なら必ず、ある時急に音が変わったり、曲がよく聞けたりする、成長の節目の瞬間を経験しているでしょう。
 「須江麻子」が、なぜピアノを弾くかを知る瞬間、音楽とは何か知る瞬間にウンウンと頷いてしまう。「須江麻子」の音楽に対する無知や畏怖が、よくわかる。「ピアノが好きになる」というあたりの、作者の音楽に対する気持ちがうれしい。
 最近、他人にCDや演奏会を勧める機会が増えました。どうしても自分の好みを押しつける結果になってしまうもの。そこでまずはこの作品を読むことから勧めています。賛否はともかく「音楽の力」とはこんなものですよ、と。
 「うちの麻子はシチューが得意です」と自慢する母、「時計の音がバッハ、女子高生のおしゃべりがモーツァルト、そしていつもポケットにショパン」というエンディングの言葉。示唆に富む言葉やエピソードに溢れています。音楽を聞くとき感動をどう言葉にするか、わたしの出発点です。
 復刻を期に多く読まれることを願わないではいられません。発表(1980-81)以来30年近くたちましたが、日本人がクラシック音楽をどう受けとめてきたかの一端が知れるのではないでしょうか。
 今では一緒に育ったはずの「須江麻子」とは似ても似つかぬ好みになってしまいましたが。


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