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2018年春、映画の見方について

ある知人から次のようにいわれたことがあります。あなたと映画の話をするとき、あなたの言っていることや伝えたいことはさっぱりわからない、ぼくには理解不能です、と。
わたしは、まず映画は楽しむものである、という考えがあります。暗闇に2時間椅子に固定されて、強制的に編集された動画を見せられます。今のシネコンになって中で飲食ができるようになりましたが、子供の頃の家のテレビが開放型の身体自由な鑑賞なら、映画館のは椅子に縛り付けられた強制でしかない。観る者がのめり込むような、集中できる何かがないといけない。よほどのインパクトある訴えかけか、鑑賞側の教養か。でなければ当然眠くなってしまいます。
映画のインパクトとは何かしら、わたしにとっては当然「映画でなければ得られない独自性の高い動画」となります。それが書物やテレビ、ラジオ、絵画鑑賞、演劇鑑賞などでも享受可能なものなら、わざわざ映画館に縛り付けられる価値がありません。
テレビは15分程度ごとにCMがはいります。身体の自由な人間の集中力の限界といわれています。ところが映画館では90分から、現在だと平気で120分を超える強制固定視聴に。
ビデオの時代になり、映画を個人所有し、それを集中可能な15分ずつ毎日鑑賞が可能になりました。連続して観続けるためには、ますますのインパクトが必要。
現実の世界で、ほぼ観ることができない世界を「観せる」ことが、「魅せる」ことになります。
感動の実話を、感動するように映像化するのがどれほど難しいものか。実話であることは、役者に演じさせるドラマより、ドキュメントの方が説得力が得やすいということになります。吉田秀和が記録されたレコードより実演に接することにコダワッタように。
黒沢明の作品について、わたしは結局ビデオでもっとも回数観た作品は「椿三十郎」となりそうです。荒唐無稽でペラペラの紙芝居のごとき、深淵なるテーマ性もない娯楽アクション。この作品で主人公の大量虐殺を責めるのが映画を鑑賞する正しい態度なのかどうか。わたしにはこの作品の最後の決闘の再現を熱心にするネット上の動画をアップしている人たちの、一種異様な熱意の方が、正しい態度の映画鑑賞と思います。文明批評、社会批評のようなテーマの有無を、その理解度を絵踏みの「踏み絵」のようにして、作品や鑑賞者を分けるべきとは思いません。あっという間の90分を泣き笑い、驚きするので十分。わたしは映画館に苦痛を味わいに行きたくない、と思っているだけなのです。
初めて暗闇の中で「カメラを持った男」を観た時の驚き。一体何が起こっているのかわからないうちに観終わりました。一個の街を主人公にした、なんていう理屈はさっぱりわかりませんでした。ただただ「目撃した」のです。その印象がつよいほど、臨場感が残ります。
「抵抗」のアップの積み重ね。「1900年」の長尺。
「この素晴らしき世界」の主人公の知恵と勇気、わたしには「モンキーシャイン」の主人公の知恵と勇気と同じです。それを同列に目撃できるのが映画かと、思います。
申し訳ないけれど「ショアー」の線路を観たいとは思いません。わたしにはテレビドラマ「第一容疑者・姿なき犯人」で十分。

映画を、「目撃」して「励まされた」感覚なしに、映画館には行けません。「目撃」して共に証人の列に加われ、それが人としての使命だ、なんてのは一種の洗脳にしか思えないのです。映画館が洗脳された人々が正義の暴徒と化す、なんてのはそれこそ映画の中だけにしてほしい。
身近に2日間連続でXJAPANのライブに駆けつけるファンがいました。20年あまり前の報道の映像はまるで洗脳された暴徒のようなもの。でもそれがなんだというのでしょう。やっとわたしも洗脳やら絵踏みやらというアレルギーから解放されて、ただ開かれた傾聴をすればよいのだと、思えるように。誰かが何かに「励まされた」ことを寛容に受け止められるようになった、そんな風に思えました。
冒頭の知人は、常に他者に「絵踏み」を強要するような体、それが大人の社会人としての行動の規範になる教養なのだと、励まされたら行動しなくてはならない、知ったからには放っておくのは罪だと、いわんばかり。その人物から、あなたは血が通っていない、何より心がない、と批判されます。結構です、わたしは熱い血が流れていない、心のない人間で結構、みて見ぬふりする無責任で利己的な人間で結構です。XJAPANはいちいち見聞きしないけれど、そのライブに通う人を素晴らしいと思います。別な誰かが「清河への道」を聴くのも同様。わたしの子供はMagic of Lifeだかのライブを聴きに行き、それも同様。そもそも、わたし自身マウエルスベルガーの哀歌を聴きに行く、その方が、形式的で理屈に偏り非人間的かと思えますが、どう思われようが結構。
よいこともあります。ファミマで買い物中の窓に大きなサム・スミスのポスターを見て、誰かこの歌手を気に入っていたような気がする、とぼんやり。その人は早速チケットを落手しその日が来るのを支えに日々過ごすことに。
この間まで観ていた「アンナチュラル」の主題歌「Lemon」はこんな風に終わります。
「あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ / そのすべてを愛してた あなたとともに / 胸に残り離れない 苦いレモンの匂い / 雨が降り止むまでは帰れない / 今でもあなたはわたしの光」
映画館で映画を楽しむことは、今はさりげないテレビドラマの方がよほどそれらしい----。

「Lemon」の中で「はい」とか「ほい」みたいな子供が合いの手をいれるような音はなんなのでしょう。
しかし作詞も上手だし、編曲アレンジも気が利いているし、わたしもつい耳を傾けて聴き入ってしまう、そしてなんとなくメロディも覚えてしまう、大したもんだなあ。
気に入らない知人の話題から、「Lemon」が浮かんでくる、芸術のすごいところですねえ。

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