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レジェンド・マリーは全く縁の下の力持ちでなく(その2) マダム・ポワンの略歴豪傑訳

フランスのヌーベルキュイジーヌはオーナーシェフの時代でした。ボキューズやロブションなど、シェフ名=オーナー=店名。天才やらカリスマやらでない人はどうしたらよいのか、そう問うたとき、輝いたのが、そうでない名前のレストランたちでした。
ピラミッド、コートドール、グランヴェフール、ロアジス、ヴィヴァロワ、ランブロワジー。といった名前。その中でも、オーナーでありマダムでありというピラミッドのマダム・ポワンは大変興味をそそられました。
これを自家焙煎コーヒー店で照らし合わせると、それはそれで興味深い。

海老沢泰久著「美味礼賛」のマダム・ポワンとのやりとり。

「----作り方は調理場にギー・ティヴァルというシェフがいるから、彼に後で聞きなさい」
「教えていただけるんですか?」辻静雄は驚いて言った。
「もちろん」とマダム・ポワンは言った。「どうして教えてもらえないと思うの?」
「ええと、日本では料理人が自分の料理を人に教えるという習慣がないものですから。伝統的にみんな隠すんです」
「それはきっと自分の料理に自信がないからでしょう」とマダム・ポワンは笑った。「違う? フェルナンは人に聞かれるといつも丁寧に教えていたけど、こうも言っていたわ。料理は芸術と同じで、どんなに人に作り方を教わっても、同じようには決して作れないものだって」

パリのアルデシュ出身者情報のネット記事

マド (マダムの略称)ポワン(1898-1986)
レストラン・ピラミッドのアルデシュの女性
ヴィエンヌの有名なレストラン「ラ・ピラミッド」の伝説に貢献したフランス美食の女王、マダム・マリー・ルイーズ・ポワンは、サン・フェリシアンのあるアルデーシュ出身でした。(ジャン・ロクブラン)


彼女の名前はマリー・ルイーズ・ポーラン、1898年9月12日にブリンテナスのサン・フェリシアン地区で生まれました。 父親ジュール・オーギュストは誕生時34歳で靴職人で、母親のジョゼフィーヌ・クレマンティーヌ・フローレは21歳でした。 祖父は村の染物屋でした。 家族同様、ビジネスに惹かれた彼女は美容院を開き、結婚後も毎朝アナグマブラシとカミソリを使って昔ながらの方法でフェルナン・ポワンの髭を剃っていました。 当時の年代記に彼女がシェフとどのように出会ったのかは書かれていませんが、記録は1931年3月14日にヴィエンヌ市庁舎で結婚。フェルナンはかなり内気で控えめでしたが、マリー=ルイーズは外交的で現代的でした。1923年以来美食家の聖地、ヴィエンヌのピラミッドは美食の首都でした。 フェルナン ポワンは「パンタグリュエルのような素晴らしさと知恵を持っていましたが、時にジュピターの輝きも持っていました」フェルナンはシャンパンで元気を得ます。196センチ165キロという彼の体格を考えると、「マグナム」が「バター、バターをちょうだい、いつもバター!」と叫んだとき、見習いたちは従ったほうがよいでしょう。 »

温かい雰囲気がそこにはあり、かつてヴィエンヌで最も魅力的ベストドレッサーの一人である「マド」の下着が大聖堂の鐘楼からぶら下がっているのを見つけたと言われています。 フェルナンが司教と管理しなければならなかった小さなスキャンダル。

シェフはザリガニの尾グラタンを作る方法を知っていました。サシャ・ギトリはよく言っていました。「よく食べるには、ポワンがすべて」。フェルナンデルまたはコレット経由でコクトーは、誰もがリヴィエラに下る途中で立ち寄りました。 タン レルミタージュと同様、国道7号線沿いの美食の停留所。その料理は国際的な著名人、国家元首、戴冠した首長、俳優、作家、有名人を魅了し、すべてがマド ポワンの歓迎に溶け込みます。1950年代、オーナーシェフは、ダマスク織のテーブルクロス、リモージュの食器、バカラのクリスタルグラス、そしてお祭り気分の上品な雰囲気など、テーブルに新しい外観を与えた最初の人物でした。フェルナン・ポワンは、ヴァランスのアンドレ・ピック、ソーリューのアレクサンドル・デュメーヌとともにコート・ドールの3大フランス料理シェフの1人に急速に名を連ねました。美食家のプリンスであるキュルノンスキーは、かれらを「料理芸術の頂点」と考えており、常にミューズであるマド・ポワンが側にいます。

1955年にスターシェフが亡くなったとき、マリー・ルイーズはレストランを継続し、「マダム・ポワン」と呼ばれました。彼女はスタッフを雇い、夫の仕事を続けました。コクトーが「親愛なる友よ、どうしてその存在が消え去ることができるのか理解できません」と宛てて書き記し、受け取ったマド・ポワンは、記憶に忠実であり続け、フェルナンの原則に忠実でした。夫の副司令官だったギ・ティヴァールと給仕スタッフとともに、彼女はピラミッドの維持方法を知っており、ひらめ(チュルボ)(Turbot)の蒸し煮シャンパーニュ風味、キュルノンスキーのブロンドレバーケーキなど、フェルナン・ポワンの素晴らしい料理を提供し続け、三ツ星を維持した。(訳のメニューについてはよくわかりません)

1978 年、マド ポワンはピラミッドで修業したポール・ボキューズとともに創立80周年を祝いました。 彼はマド ポワンの寛大さを思い出すのが好きでした。 たとえば、午後 2 時にランチに到着した 2 人の顧客の話は次のとおりです。 - ああ、何でもください。 - 紳士諸君、何か欲しいものがあるなら、どこへでも行ってください! (寛容なエピソードだと思いますが)

彼女のカリスマ性、歓迎の気持ち、そして南部の人柄が、グルメ界での知名度をもたらしました。 1986年7月8日、新聞ル・モンドは、「レストラン経営者マド・ポワン死去:有名なレストラン経営者マリー・ルイーズ・ポワンが、7月5日土曜日、ヴィウンヌ(イゼール)の自宅で88歳で死去した。 ヴィエンヌで品質の伝統を維持してきたのは彼女だ。フェリクス・ブノワの援助を受けて、大切なレシピ本『マ・ガストロノミー』の出版に尽力したのも彼女だった。彼女は 1969 年 12 月 12 日にフラマリオン書店からこの本を上梓した。」

サン・フェリシアン出身、アルデシュ州のマリー・ルイーズ・ポワンは、終生フランス料理への敬意をいだき続けました。彼女は村の通りに肖像を掲げたり、彼女の名前を刻むのに値するのです。

(その1)は、マリー・レオンハルトです。

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