悪夢 3/5 僕の憎しみを理解することは誰にもできない。

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 僕の憎しみを理解することは誰にもできない。
 おそらく、例えそれが心理学者であっても、看護師であっても、歴戦のヘルパーであっても、親しみある大家であっても、隣人であっても、肉親であっても――そして悪魔であっても。

 それはタールに塗れたたくさんの瓦礫の最中にあり、殆ど消えかけた炎で、何のエネルギーにもならなかったが、決して消えることはなく、えんえんと胸の中でくすぶり続けていた。
 一度気に留めてしまえばひどい臭いはずっと鼻をついて回り、気にして触れてみると未だ驚くべきほど熱く僕を仰天させた。それは僕がどんなに平静であろうとしても決して鎮火することはなく、どころかだんだんとその焼け野原で僕の魂のどこもかしこもを侵蝕しようとしていた。
 次第に、意識が頭の中をうろうろするたび、意図せずその瓦礫の中で昏く赤熱した憎しみに触れてしまう機会が増え、僕は思考することを諦めるようになった。この一瞬の硬直が沐浴中の息子をうっかり湯船に沈めてしまうことを知ったからだった。

 幸いにも多くの場合、僕の意識は意識の野っぱらをうろつく余裕など持たなかった。
 小さな赤ん坊と共に暮らすというのは、彼のために全てを捧げるということだ。泣き声に誘われて眠る間はなく、むずがって食べない食事をうんざりしながらスプーンに乗せ直し、「何が気に入らないんだ?」と鏡の中に問いかけながら抱き上げた。
 仕事に割ける時間がなくなってようやく、僕は僕という人間にはどうやら限界があるらしいということを知った。葬列を追うときさえ忘れなかったルーチンを何度も忘れるようになった時には、もうそれを惜しいと思う意識さえ残されていなかった。

 それでも要件は容赦なく現れ、僕の肩に次々と積み上げられていく。健診、祈り、引っ越しを行う隣人、やっと眠った少年を再び目覚めさせる真夜中のクラシック、優柔不断の大家、雨漏り、小さな子供を扱う人々の集会、追い払うメソッドをなくしてしまったあとのしつこい新聞の勧誘、生活のための諸経費、必要最低限の買い物。全てがいっせいに目を覚ます蛇のようになって鎌首をもたげ、次々と僕に襲いかかってきた。
 ある人々は、蛇の巣に片足を突っ込んでしまった僕を荊の中から助け起こそうと手を伸ばした。例えば最初に気が付いた隣人であるとか、大家であるとか、ずっと北の州に住む両親であるとか、彼らに事情を紹介された二つ上の姉であるとか。彼らの支援はたいてい、物理的なものと同時に、僕自身の憔悴を減らそうという微々たる努力が含まれていた。僕の代わりに息子をあやす、面倒を見る、買い物のための時間を取る、そういう行為を。

 だがそれに乗るわけにはいかなかった。

 僕は、目を開けている間中、ずっと"彼"の視線を感じていた。あるときは洗面所に立ったときの鏡の向こう、あるときは消したテレビの中の暗黒、あるときはカーテンの造りだした薄っぺらい闇の内側。ほんの少しの影を見極めたなら、彼は瞼の内側以外のどこにでも立つ。そして僕をただその場所から見つめているのだ。慈悲深い同情者か、あるいは批評的な視線で。
 それをひがな一日気にしているうち、僕はその男に表情があることに気が付いた。
 "彼"はめったに話しかけてはこなかったけれど、僕の行動を見て、静かに一喜一憂していた。
 僕が途方に暮れていると静かに微笑み、安らかにしていれば共に安らぎ、怒っているときは悲しげに瞼を伏せ、外へ出るときは曖昧に見送った。ことさら彼の表情が変わるのは誰かが訪ねてきて、普段はあまりつけることのない廊下の100ワット電球に火が灯るときで、これが成されるとき、彼は決まって冷ややかに眉をねじ曲げ、僕を軽蔑したような、憐憫の視線を送ってくる。
 最初はただ「なぜそんな顔をするのだろう」と思っていたが、思ったよりもずっと僕があの表情に苦しんでいると気が付いたのは、ヘルパーを家に呼んだときだった。彼らのめまぐるしい振る舞い、指摘、あらゆる行為が僕の部屋と僕自身を荒らした。実際には荒れた部屋はずいぶんと片付き、僕の小さな少年は機嫌を直したが、僕当人は驚くべきほどの虚しさに襲われた。"彼"はすべてを知っているのだ。僕がなぜ、暗くごたついた部屋の中で暮らしているのかを。

 僕の憎しみを理解することは誰にもできない。
 おそらく、僕は失われたことを苦しんでいるが、失ったことそのものを恨んではいない。ただふと、ただ偶然に、彼女にまた会いたいと思うとき、僕の薄っぺらい手のひらはこの燻った炎に強く押し付けられ、僕はその壮絶な白熱にじかに晒されて絶叫する。彼女が照らしていた僕の草原の全てが焼き払われ、そこにうち建てた全ての栄光が煤を纏う瓦礫となって炎に覆いかぶさっていた。もう残っているのは影だけだった。そして"彼"はきっと、いや間違いなく、そこに生息しているのだ。

 だから僕は"彼"を無碍にすることができなかった。できることなら"彼"のあの表情を、決して見ることなく暮らしたかった。

 僕は"彼"の顔を見伺いながら暮らすようになった。カーテンを閉め切り、その輪郭がよく見えるようにした。"彼"の表情が曇るようなことがあれば、あらゆる行為はできるかぎり中止した。
 これによって、やがて僕を(おそらく)救おうと思って荊の中に手を出したがった人々は、静かに諦めて去っていった。僕はヘルパーの契約を切った。小さな少年は夜ごと泣き、気まぐれに笑った。思えば僕が"彼"のほうを見ていないときはほとんど息子を抱いているとき以外なかった。いつもこの二名の顔色を窺って暮らしていた。
 ごく従順に、そしてよくやっていた。

 *

「本当のことを教えて差し上げましょう」

 ある日、"彼"はどこか満足げな、晩餐会の主賓が挨拶の終わったステージを見つめるような具合で、僕に語りかけた。

「あなたのその炎が、本当に待ちわびている風のありか。その熱が本当に求めているべき、焼き払うための草原を」

 僕はただ黙って、"彼"の満ち足りた顔を見つめていた。腰が痛み、もはや立つことさえできなかった。僕の身体は海溝に根差す深海魚のように深くソファに埋もれていた。

「あなたを苦しめているのは彼女との思い出だが、ではなぜそこに炎が放たれたのかを覚えていないのですか?
 それは彼女が奪われたから。あなたが当然得るべき、愛する恋人、あるいはその愛おしい小さな少年の母親を、一切の容赦もなく、突然に奪い去られてしまったためです。
 おかしいとは思いませんか? なぜ彼女は亡くなってしまったのか? 理由などない、そうあれは事故だった、飲酒運転の引き起こした、国中のあらゆる交差点で起こり続けている不運と同種のものだ。だけれど、やはりおかしいとは思わないで? 何の理由もなく、あなたの魂の半分は完全に焼き払われてしまった。なのにあなたに憤る権利がないと本当に思われるのです?
 苦しむならば、憎むべきだ。大切なものばかりに火を放っていてよいはずがない。本当に焼き払うべきは、あの恐るべき暴挙を成しておきながら、今なおのうのうと罰金を支払って仮釈放されている悪党どもであるでしょう。あなたは知っているじゃありませんか。あいつらがそれはそれは高い罰金を分割で支払って、そうして今もまだ止まった免許の復活を待ちながら、街の小さなバーで葉巻を蒸かしていること。何の虚無も憤怒もなく、のうのうと恋人と睦み合っていること。ならばおわかりでしょう、いや、もうずっと分かっていたはずだ。あなたの燻った炎の、本当の使い道を。なぜあなたばかりが己の火によって火傷し続けなければならないのです? 本当に傷を負うべきなのは彼らではないのか? 彼らはまだ、ほんのうっかりしたことで人を撥ねてしまったがために免許が止まって、通勤するのが面倒になってしまったねと笑い合っているのに!」

 気が付くと僕は書斎に誘われていた。
 そこには新聞記事があった――あの事故に関する全ての記事だ。地方新聞では事件欄に乗り、投稿欄で憤怒の声がひとつふたつ上がった。やがて小さなコラムが載せられ、しかしそれだけだった。隣にはメモがある。公判記録、そして彼らが示談と"態度優良"の仮釈放を受けていることを報告した探偵の報告。
 それらは羅針盤であり、方位磁針であり、明確にとあるディスコ・バーの方角を指していた。
 それを、まるで今ようやく知ったかのように思えた。気が付けば手元には、振るえばなにもかもをすぐさまに焼き払える特大の火炎放射器みたいな虚無と、それに注ぎ込むためには余りあるほどの在庫を待たせる燃料めいた黒い水面の憎悪、そして弾の籠った一丁の銃があった。

 その時、僕は鎌首をもたげ、影の向こうにトンネルの出口めいた光を見た。宇宙の暗黒のように、黒い光だ。おそるべき重力でなにもかもを逃がさない塊。
 僕は、僕自身もまた、蛇の一匹であることを知った。それは僥倖だった。僕は自分が決して間違った方角へ向かって歩いているのではないことを理解した。目的地の全てを、羅針盤と、方位磁針と、僕自身の瞳が見つめている。

「他の誰にだって分かりやしない。これは僕がやらなくてはならないことなんだ」

 呟くと、傍らの"彼"は温室の蕾が緩むような微笑みを見せた。
 その指はドアを差していた。僕は拳銃を懐に仕舞うと、靴を履き、すこし思い返して、脱いで、驚くべきほどすやすやと眠っている僕の息子のベビーカーを押してくると、一緒に外へ出た。すべきことは決まっていた。

 "彼"が十数歩の後ろをついてくる足音を聞きながら、どんな段差に揺られても目覚めることなく眠り込んでいる小さな少年を見つめつつ、導かれるように目的地を目指した。


4/5へ続く)

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