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ルパン三世  全記事

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原作から50年経った国民的アニメルパン三世。 50年経っても尚衰えな魅力とは? ルパン三世とその時代。
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ルパン三世 モンキー・パンチの作画の魅力 Ⅱ

第46話「絶対突破」 「第三の男」にこんなシーンなかったっけ?(多分ない)と思うくらいそっくりな雰囲気の導入シーン。 角度が変わった街灯や、あえてぐるぐると揺れているような石畳のデザインで、頭上からのショットでも人物が動いているように見える錯覚。 第88話「我が盗争(その1)」 この時代の週刊誌の二色刷りの赤(オレンジ)を、朝焼けや夕焼けに利用し、たなびく雲のように宙に飛び出したルパンとビルの影とのコントラスト。散らばりきらめく割れたガラスの輝きが、派手なアクショ

ルパン三世 モンキー・パンチの作画の魅力 Ⅰ

毒々しく禍々しいデフォルメが多いので、「ルパン三世」の漫画はどうも好きになれないのだけども、背景画や静物画には時折目を見張る描写があって、人物画よりも風景画の方に作者の卓越したセンスや才能を感じる。 こなれた後の作品よりも、初期の旧作の方に絵画的な美とインパクトがあって、粗削りながらも、絵的には旧作の方にハッとさせられるものが多い。 全部読んだわけではないけれど、いくつかこれはと思った物をピックアップしてみる。 第21話「クールタッチ」 モノクロのコントラストがキツす

ルパン三世 サンプリングとパロディ

「ルパン三世」のスケール感や二次創作の自由度の高さは、原作者のモンキー・パンチ先生の寛大さのおかげで、いろんなビジネスの事情があるにしても、そこには確かに作者の慧眼があったと思う。 漫画の神様と呼ばれた手塚治虫のリアルタイムの存在感が今ではほぼなくなっていることを考えたら、ルパン三世がここまで長生きしているのは奇跡的で、作者の英断は、後にやって来るヒップホップのサンプリング文化との関連を考えてしまう。 まさか手塚治虫のキャラクターよりルパン三世の方が有名になるなんて、50

ルパン三世 「殺し屋はブルースを歌う」Ⅵ 古典の面白さ

「殺し屋はブルースを歌う」は、作者の寡黙な表現を、アニメ監督の大隅正秋さんがドラマチックに演出していて、原作漫画以上の出来になっている。 脚本家を調べてみると、さわき とおる氏のクレジットがあり、同脚本家は、第4話「脱獄のチャンスは一度」第9話「殺し屋はブルースを歌う」第10話「ニセ札つくりを狙え!」の三作を担当している。 評判のよい前二作を書き、第10話も偽札づくりの天才職人と、彼を犯罪から遠ざけようとする老婦人の哀愁漂う物語が根底にあり、物語としても悪くない回。 ち

ルパン三世 「殺し屋はブルースを歌う」Ⅳ 不二子のその後~2ndのED

これは、私の勝手な想像なのだけど、2ndのEDで「これはもしやプーンとのことでは?」と思ったEDがある。 52話から103話の間に流れた、Cタイプと呼ばれるものである。 2ndのEDは不二子がテーマになっていて、女性=海というのもあって、海辺のシーンで統一されている。 コメディエンヌな本編の不二子と違って、1stの荒野をバイクで走る不二子のシーンを継承し、夕陽が照らす海辺をオープンカーで颯爽と走る哀愁漂う不二子が登場する。 これはAとBのバージョンで、色違いの同じ絵を

ルパン三世 「殺し屋はブルースを歌う」Ⅳ 一人の女と二人の男

ライバルに対して背を向けるルパン。 このシーンは、ルパンのアニメの中でもルパンの底知れぬ怖さがよく表れていて、ゾッとするシーンだと思う。鬼畜な描写が多い漫画の中でも、このオチははっきりと記憶に残っている。 ルパンの怖さ、冷酷さが一番よく表れていて、男同士の駆け引き、挑発、女心 ルパンは彼らの心理を全て理解していて、支配していて その賭けに打って出る大胆さと度胸。 プーンと不二子を挑発し、ルパンだけが望む結果を手に入れている。 ルパンは自分の手を汚すことなく、女に始

ルパン三世 「殺し屋はブルースを歌う」Ⅲ プーンと不二子

久ぶりにこの回を視聴してみたのだけど、プーンが不二子を奪う理由が「不二子と活動していた時の充実感を取り戻したい」というもので、プーンのエゴでしかなかったのを今更気が付いて、私少し間違っているかもしれないと思って、また考え直してみた。 プーンの言葉通りだと、プーンは自分のことしか考えていないエゴの塊だけども、その割には言葉とは裏腹に破滅に向かっているのはなぜだろう? 不二子が負傷して虫の息だから不二子を奪えたけども、もし事件が起きてなかったら不二子をどうしたのだろうか?

ルパン三世vs複製人間マモー Ⅲ マモーとPART4のダヴィンチ

クローンの運命 「永遠の生命」を否定したルパン。永遠の若さを欲しそれを信じた不二子と違って、ルパンがなぜそれをくだらないと思えたのか。 ルパン自身が自分の唯一性、絶対性を何よりも信条として誇りとしていると考えた時、クローンによる永遠の生命など、その全否定でしかない。 その絶対性は、今この時、この時代を生きている、という点でも絶対的であり、永遠の生命は、現在を生きている時間の否定にもなってしまう。 ルパン三世が今この時代に生まれ、この時代を生きているという現在性、同時代性

ルパンVS複製人間マモー Ⅱ ルパン三世の証明

「複製人間」は1stのルパンを想定して作られたという。昨今の「ルパン三世」はファミリー向けが当たり前になってるけど、「ルパン三世」は当初から「大人向け」アニメとして登場してる。そのため、いくつになっても鑑賞に耐えられるアニメ作品になっている。 キリコの騙し絵のオマージュやスピルバーグの映画のパロディとか子供にはわかりにくい。 若者向けということで、ルパン史上、ルパンと不二子が一番恋人同士っぽいのもこの作品。ルパンが不二子を「お前」呼ばわりしたり、最後の脱出シーンでも不二子

ルパンvs複製人間マモー Ⅰ クローンとシャドウ、シュルレアリスムの映像表現

押井ルパンの構想はどうしてもこじらせてる感があって好きになれない。ルパン三世という枠を壊すことで意義を求めるのではなく、ちゃんと土俵の上で勝負しなよと思ってしまう。複製人間みたいに。 いつだって巨匠たちは名を上げるために既存のスキームを壊すことばかりする。作品を尊重し最大限の効果を上げる職人的なアニメーターやクリエイターは歴史に埋もれがち。 盗むべき価値ある対象がなくなったなんてことはない。PART5をみれば、ルパンが盗む対象が物から情報やシステムに代わっているのがわかる

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ルパン三世 PART5 ルパンVS五ェ門 Ⅱ ルパンvs不二子

五ェ門の辞書に「愛」という言葉はあるのだろうか? 暗殺者として生きて来た五ェ門に果たして愛はあるのだろうか? これは何も五ェ門が愛を知らない冷たい人間という話ではなくて、五ェ門が暗殺者として生きて来た過去だけでなく、「愛」という概念が明治以降西洋から輸入された概念のため、元々日本人の文化にはなく、昔ながらのお侍の道を生きる五ェ門に果たしてその概念があるのかとふと思ったのだ。 「愛」という抽象的な概念が入って来るまでは、私たちは「慕う」「親しみ」「好む」「情け」のような感情

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ルパン三世 PART5 ルパンVS五ェ門 Ⅰ

ルパンと五ェ門の決闘シーンは、本当は不二子への告白シーンより互いの感情面や関係性において、ずっと重要なシーンでもある。だって命がけで戦ってるのだから。それに比べればラストの不二子との対面はオマケのようなもの。 ルパンのマスクを次元がアドバイスしたり、実は大河内さんは不二子を表に押し出す代わりに「男同士の絆の方が厚い」と序列を付けてる。これは設定集でメモされている。 ルパンと五ェ門の勝負。 ルパンが五ェ門に真一文字に胸を斬られたというのは、ルパンは五ェ門に対して腕などで防御

ルパン三世 PART5 ルパンと彼らの関係Ⅱ

リップサービスの愛の言葉と違って、本気のルパンの愛情表現がいつも命がけなのは、それがセックスのメタファーでもあるから。女のために命を惜しまないのは、女の中で果てる性行為と等しく、それがルパンの快楽でもありプライドでもある。 ルパンと不二子、二人の破局と4年間の別離の重み。ルパンがそれをリセットするには全てを捧げる必要があったということか。 PART5には「殺し屋はブルースを歌う」に負けないほど、濃厚なラブストーリーが根底にあると思うのだけど。 元剣道部出身としては逆手が

ルパン三世 PART5 ルパンと彼らの関係Ⅰ

PART5のEP1で自分の死の偽装をルパンは4年ぶりに会った不二子と共謀したわけだけど、それを次元五ェ門に内緒にしてたのかどうか、彼らとの信頼関係を揺るがすとても大きな問題。 そもそもPART5の最後で爆発した仲間たちの鬱憤やいざこざは、ルパンが冒頭別れた不二子を呼び戻したことから始まる。 ここでは、内緒にはしていなかったと考えてみる。なぜなら数年ぶりにルパンと会った不二子が賞金目当てにルパンを殺したら、相棒たちが逆上してその場で射殺されかねない。だからその計画は仲間たち