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考え方次第で自責の念は消せるのか

抱えていた介護士の案件が全てなくなった。
あまりに突然だった。

私にとって介護がいかに向いてないかであったり、介護を辞めたいといったことをnoteで投稿してきた。
今回ばかりは言霊を信じざるを得ない。

ただ、今回はショックなだけではなく、むしろ自分にとってチャンスを与えてもらったと考え直す余裕がある。いっそのこと今後の案件の可能性も全て捨てて、一旦休もうと考えた。


私は仕事との折り合いが付かずに無職になることが、ある意味常態化している。

ある時は、案件と上司がガラリと変わって、無能さがバレてクビになる。
またある時は、与えられた職務を全く理解できず、自分を追い込んでしまい、うつになる。
そして今回は、自分の訛りが原因で相手のトラウマをフラッシュバックさせてしまい、相手との関係が全く築けなくなった。


こうして私は、自分の能力不足や配慮の至らなさを痛感しながら雀の涙の貯金を切り崩して自分の生活を追い込む。

これは非常に良くない。
しかし、今回は今までとは勝手が違う。

なんといっても、文章が書けるくらいには精神が安定しているのだ。今までは、うつやその一歩手前まで進んでいて全く冷静な判断ができなかったし、なんなら相談すらまともに聞く耳を持てなかった。自分に余裕があるまま無職になったのは今回が初めてだ。

ここで戦略的撤退をして、いま一度働き方改革を推進する時が来た。そう感じている。私の性格上、思い立った時にやらないと動けない。いいところでもあり悪いところでもあるが、こればっかりは変えることが出来ない。

こういった経緯で、私は上司に「案件受注の保留」を連絡した。

そして、タイトルのようなことが起こるのである。


連絡してから数分で返信が来た。
要件は書いてないが、おそらく保留の真意が聞きたいのであろう。体感1時間を超えるほどの長電話を通して、以下のようなことを語られた。

・やった案件はどれも難しく、決して能力不足が原因ではない
・長く続くスタッフは守るべき存在がいて、責任があるため辞められないので続けることが出来ている
・会社には適応障害やうつを抱える人も働いているので、辞める事由には該当してると言い切れない
・問題は自責の念を感じ過ぎている点であり、そこを改善しない限りどの仕事も続かないだろう

これを聞いた私の感想のまとめはこれだ。

「真面目はどうやって直してきたか教えてくれ」

先に述べておくが、この上司は私が仕事で出会った中では最高峰にいい人である。すぐに連絡をくれる人なんてなかなかいない。しかも時間のかかる電話という手法で。

言い分ももちろん分かる。気持ちもよーく分かった。きっと多くの人に当てはまる改善案なんだろう。

では私の意見をまとめていきたい。

まず一つ目、「能力不足ではない」は励ましているようで実際かなり傷をえぐられた。理由は単純だ。似たキツい環境でも3年続く人がいるからだ。彼らと私の差は一体何か。その場の適応能力、ひいては手の抜き方の技術に他ならない。ではどう適応し、どう手を抜くのか。上司の回答は「人による」であった。
正直、手探りで解決策を探しつつ、利用者に罵られるのを耐えてまで金は欲しくない。これが守る人がいるか否かだけで解決するなら、仕事よりパートナーをくれ。

私は自分の臨機応変のなさを痛感したのである。
上司にはここを理解して欲しかった…

続いて2つ目、「守るべき存在」についてだ。これは論理が破綻していると言わざるを得ない。
男性は女性より自殺率が2倍高いそうだ。理由は経済的な理由である。重すぎる責任感は人に死を簡単に選ばせるのである。それに私は、一家の大黒柱として、上司のやっかみや部下からの視線に挟まれながら、体調を崩しながら仕事をしている「あなた」を私は間近に見てきた。そして、私はあなたの愚痴を聞いてきた。つまり仕事を続けるために必要なのは溜まったストレスを出す捌け口であり、守るべき存在を守る責任感ではない。

そして3つ目、「社内の適応障害とうつ」は、元重度うつ患者から言わせれば、「会社体制の崩壊の象徴」だ。その病気の原因は、その人が環境に合ってないからである。なのに、未だに勤めている。これは会社が引き留めているからである。会社がすべきなのは「あなたには合ってないよ、合うところへ行きなさい」と従業員を手放す勇気、またはしがみつく従業員を振り払う勇気である。勤め続けるのは、双方にとって不利益でしかない。特に適応障害は場所を変えれば大丈夫というケースもあるが、そこに甘んじていると、いずれうつになるだろう。

最後の4つ目、「自責の念は努力で外せる」のかについてだ。これが話したくて、そして今後も私にとって大切だからまとめておきたくて、今回の記事を書いた。ここまで読んでくれている方がいるなら、心から感謝したい。

結論から言って、理想論である。つまり直らない。
考えてみてほしい。今まさに、あなたがある考えを決定する際の根拠はどこだろうか。あなたはなぜ映画を見ることが好きなんだ。楽しいからだ。ではどうして楽しいんだ?

あることを改善するということは原因を特定し、そこを直し、違えば別の原因を特定し直す、という繰り返しのはずだ。自責の念を感じ過ぎることを直すのは、上記の例で言うところの「映画が楽しいのはなぜか」みたいな話に近い。いつから楽しくて、その原因は何で、今からそれを改善するにはどうすればいいか。
果たしてこの努力に意味はあるのか?否であろう。

私は「繊細さん」の節がある。俗にいうHSPのことだが、繊細すぎる部分を直すということは、背の低い人に背が伸びるように毎日願って背を伸ばせ、と言っているのと同じだそうだ。つまり、生まれながらに繊細な気質を持っていて、改善するとかしないとかの話ではない。

要するに、私は半自動的に自責の念にかられてしまうのだ。それを「気持ちの持ちようだよ」と言ってくる人に対して、あなたはどう感じるだろうか。

あなたは太ってるからダイエットしなよ、と同じテンションで、太りやすい体質を改善して太るなよ、と言っているのだ。

それは絶対無理だろ!!

こうした意見を電話で言っても、10%も腑に落ちてはくれないだろう。それは仕方ない。相手には相手の考えがあり、それで実際生きてきた実績があるのだ。だから、私は寄り添ってくれた上司を否定したいのではない。ただ、相手の意向を汲み取る能力、そして汲み取りたいという意志は、他人では変えることが出来ないのだと改めて実感した。

私は頭を下げて2週間のお休みをいただいた。ほぼ辞めることを確定しているが、万が一の稼ぎ口の保険をかけておくためである。でも、このまま続けても長くは続かないだろう。

ここまで読んでくれた似たような状況に悩んでいる読者がいたら、心に留めておいて欲しい。

考えすぎと言われて、
あなたが普通と思っているなら、
あなたは言ってきた奴とは
別タイプの人間なだけである。

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