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好きな異性は恋人候補か

私には付き合いの長いコミュニティがある。それは会社でもなく、また友達とも違う。どこか夢の国のミッキーフレンズのような距離の人々が集結していて、私がごく稀に現実世界に飽きた際、コミュニティの企画に参加する。

そこに行くと、基本「久しぶり。元気してた?」っていう挨拶を受ける。それはすごくありがたいことであり、ここにお金を出しているとも言っていい。

その会話の流れで「最近どうなん?」という私が最も苦手な類の質問が来ては、適当な近況報告報告をする。その中で一番重要なトピックが「好きな人」である。そのコミュニティでは「恋愛してる?いい人見つかった?」と口癖のように発しているのである。

恋愛することが人生を楽しむことにつながるのか、というのはまた今度書くとして今回言いたいことは「好きな人は恋人候補のことを指すのか」である。

何を言っているんだ、と思われるかもしれない。そういう疑問が湧いた経緯を説明させていただきたい。

私には「感情は濃淡である」という理論がある。これは自然に身についていた考え方で何かきっかけがあったわけではない。嫌いなやつの中の好きな仕草とか、好きな人の中の嫌いな一面といった情報を無意識に収集し、編み出された言わば私独自の感情理論である。

要するに「私には好き嫌いの二元論がない」

多くの方は「好きな人ができる」ということと「恋愛対象」が一致していると思う。断言できないのは、それを聞いても自分の中にその感覚がないので、情報を処理しきれないからである。ここのコミュニティでもそういう話がきっとしたいのだと思う。

だが、私の中では好きな感情を楽しむことと恋をするということは全く別のことである。

好きは自分の心が健康ならば世の中にいくらでも転がっている感覚がある。恋は集中力が求められて、かなり注目しないと見つけられない感覚がある。

言い換えれば「好きは意識しないが、恋は意識する

では私のスペクトラムの中で恋はどこにあるのかと言われると、これが自分でもよくわかっていない。その気になれば全員好きになれそうな気もするし、逆に嫌いになる一面を全員持っているとも言えるからだ。

恋するとは「好きによって嫌いが意識できない、もしくは嫌いを容認している」状態だ。本来の自分のあり方でないけども、この人なら仕方ないという積極的な妥協がカップル間には見受けられる。

私が最もお酒を共にする友人は、彼女と同棲している。基本その人とは宅飲みをするのだが、私が居ても居なくてもあの距離感なのだろうという幸せそうな様子が私の飲酒量を増加させる。だが、その彼女がもし私と彼がいたサークルに居たら、きっと彼とは付き合わなかっただろう。そう思うくらい彼らは本質的なところが違う。だが、それでも幸せそうである。これぞ、恋している状態である。

つまり、私から言わせれば、自分に近い人は好きだが、恋には至らない。逆に遠い人が好きに感じられる時、その人と恋ができる。そういう気がする。

価値観マッチングと謳っているアプリがあり、私もお世話になっている。だが、きっとここでは出会わない気がする。自分に近い人を選別するからだ。「いい人や」というほんわかした感情が湧いてくることは、私の場合は恋に直結しない。それでも課金したのだが…

話を戻すと、そのコミュニティでの質問の回答に困る最大の理由は「好きな人だが、恋する人とは思わないから」である。要は、好きな一面と嫌いな一面が表裏一体なのである。そしてそれが恋人候補にならない最大の原因は嫌いな一面をカバーできる能力が私にあるか分からないことである。言い換えれば、その人のことをよく知らないから会っていれば恋できそうと思うが、現状したいわけではない。

こんなこと言うと「もっと直感を大事にして恋を楽しみなよ〜」なんて言われるが、これが私の直感によるものだとは彼らには気づいてもらえない。

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