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After東京五輪~これから新体操はどこに向かうのか? <7>

2010年代前半の女王・山口留奈

 2012年のロンドン五輪に向けて、日本の団体がロシアでの長期合宿に入った2010年、国内では当時まだ高校生だった山口留奈(イオン)が急成長を見せた。コントロールシリーズではダークホース的な見方をされていたがそれを覆して世界選手権代表を勝ち取り、その年の全日本選手権でも準優勝。そして、翌2011年から2013年までは全日本3連覇を果たす。
 2010、2011年と連続して世界選手権にも出場し、紛れもなく当時の日本のトップ選手だったが、団体中心の強化体制だったため、世界での知名度がなかなか上がっていかなかった。タイムや得点など客観的な記録で勝負が決まる競技ではなく、人間が採点する競技という特性から、どれほど精巧な採点規則が作られても、やはり先入観の入り込む余地はある。このころの日本の個人選手たちは、辛うじて世界選手権には出場しているもののワールドカップを転戦するわけでもなく、国内での所属での強化にとどまっていた。残念ながらそれでは世界での評価はそうそう上がっていくものではない。
 フランスのモンペリエで開催された2011年の世界選手権には、ロンドン五輪の出場枠が懸かっていた。山口はこの大会で個人総合決勝に進出し、22位という成績をおさめたが五輪枠の獲得はならなかった。同じ大会でフェアリージャパンは、団体総合5位となり北京に続いてロンドン五輪の出場を決めた。同じ日本代表としては、祝福する気持ちもホッとする思いもあったとは思うが、複雑だったのではないかと思う。結果だけではなくそこに至る過程があまりにも違っていたから。

上り調子だったフェアリージャパンを襲った悲劇

 ロンドン五輪前年の世界選手権では団体総合5位とフェアリージャパンは上り調子だった。ロシアの指導を受けているということで世界の日本を見る目が変わったという追い風もあったにせよ、たしかにこの頃のフェアリージャパンには勢いがあった。チームとしての成熟度も増しており、とくに北京前からのメンバーである田中琴乃、遠藤由華はチームの中心として輝きを放つようになっていた。「ロンドン五輪では北京以上の結果が期待できるのでは」と多くの人が思い始めていた。
 しかし、2012年5月に事態が暗転する。チームの大黒柱だった遠藤が演技中に骨折。五輪どころか復帰も危ぶまれる大きな怪我だった。ロンドン五輪に向けて着々と積み上げてきていたものが一気に崩壊の危機を迎えていた。

ロンドン五輪までの紆余曲折

 この時、日本の強化本部は、個人の有力選手をフェアリーメンバーに投入することも検討していたようだ。現に、2012年のユースチャンピオンシップでは、山口留奈、中津裕美、穴久保璃子らを1人ずつ入れてフェアリージャパンが団体演技をするという試みも公開のもとで行われた。個人選手としての力は十分あるこれらの選手が入ったフェアリージャパンは見ごたえのあるものだった。が、いかんせん五輪本番まで3か月もなかった。この短期間で新しいメンバーを投入するのはリスクがある。ジュニア時代に団体経験もあり、器用性も高かった山口は、最後までフェアリー候補として名前が残ったと聞いているが結局はロンドン五輪に出場したのは2010年からのロシア合宿に参加していたメンバーだけだった。
 このメンバー選考にしても、使用する楽曲にしても、日本で考えたことはすんなりとは通らないということは、当時の山﨑強化本部長や選手の会見などからもうかがえた。この頃のフェアリージャパンは日本の代表ではあるが、日本のチームではない、そんな印象になってきていた。ロシアにお任せした以上、こちらの意見は通らなくても仕方がない。山﨑氏の口からも「決めるのはロシアの先生なので」という言葉がよく聞かれるようになっていた。

団体強化のあおりを受けた個人選手たちの不遇

 2012年のロンドン五輪。 
 フェアリージャパンは、予選8位で決勝進出。まず、北京での雪辱は果たした。 
 決勝では7位に順位を上げ、主力選手の離脱というアクシデントがあったにもかかわらず健闘したと言える結果ではあった。しかし、このフェアリージャパンの躍進の陰で、山口を筆頭にこの頃の個人選手たちは、「後回し」にされているように感じずにはいられなかった。
 「世界に通用する可能性が高いのは団体」という判断は間違ってはいなかったと思う。だからこそ、北京、ロンドン、さらにはリオ、東京と団体は五輪出場を果たし続けている。世界選手権でのメダルまでも獲得できるところまでいった。それは凄いことだ。ただ、団体に偏って強化をしてきた期間の個人選手たちは、あまりにも気の毒だった。
 「バックアップなどなくても点数がもらえるくらい強くなればよい」と言えばそれまでだが、採点競技ではなかなかそうはいかないことは関係者なら誰もがわかっていたと思う。それなのに、それを与えられない。いわば「丸腰で戦場に送られてきた」のがこの頃の個人選手たちだ。
 そして。
 今でも忘れられないのが、2012年9月のイオンカップでの記者会見だ。 この年のイオンカップの直前に、ロンドン五輪で団体が一定の成果を上げたことと、個人での五輪出場を2大会連続で逃したことを受けて、ついに個人選手もロシアでの長期合宿で強化していくという強化本部の方針が発表されていた。そして、その対象選手は、当時中学3年生で中体連、全日本ジュニアなどで優勝実績のあった皆川夏穂(イオン)だったのだ。
 2016年のリオ五輪での個人出場枠獲得、リオ五輪出場を目指すのならば、年齢的には当然の選択だったとは思う。が、当時の全日本チャンピオンであり、皆川とは同じ所属の先輩にあたる山口は、どんな思いでこの発表を受け止めていたのか想像するだけでも胸が痛む。
 この年のイオンカップには、イオンは「シニア:山口、穴久保、ジュニア:皆川」というチームで出場していた。シニアの2人だけが出ていた記者会見である新聞記者が山口に質問した。「皆川さんのロシア派遣が決まって、どう感じていますか?」山口は、すぐには言葉が出てこなかった。そして、やっと絞り出すように「皆川選手は素晴らしい素質をもっていて、頑張れる選手です」と言った。さらに、記者は「なぜ自分ではないのかと思いませんか」というような質問をした。すると、山口は「思わなくはないです」と言って涙をこぼした。隣に座っていた穴久保の目にも光るものがあったように見えた。
 2012年、日本の個人選手たちはそんな状況に置かれていた。 <続く>

20年近くほぼ持ち出しで新体操の情報発信を続けてきました。サポートいただけたら、きっとそれはすぐに取材費につぎ込みます(笑)。