ひっさびさにレースレポートでも書いてみる

あえて今回画像を差し込んでません。4000文字ものレポート故見にくいかと思われますが、この文章には私の人生観を大きく変えたほどの出来事全てが詰まっています。それ故に安易に画像を差し込むことはしたくありませんでした(え、いつものことやん)。ご容赦ください。


先週行われた白馬クリテ、結果はなんであれど、個人としては物凄く価値のあるレースでした。多分今まで走ってきた全てのレースと比べても、このたった25分は思い入れの深い時間になりました。

何故そのようなレースになったのか。
勿論戦績という意味でならU-17全日本TTでの3位や、その翌年のジュニアナショナル組と台頭に戦っての8位といった、トップ選手相手に引けを取らない成績を残せたレースもありますし、苦労したという意味でなら、後一歩のところで昇格できなかったレースが続いた後の、2018年のJBCFやいた片岡ロードE2での劇的なBirth Dey WINとE1昇格(なお2日遅れ)もあるわけです。

正直なところ、自分にとってクラス3ともなれば「表彰台に乗るどころか、それこそ勝って当たり前」なレースなわけです。なにせこれでも全日本選手権の表彰台に(ほぼマグレとは言え)乗ったことのある選手ですよ。そりゃこんな、言ってしまえば初心者も多くいるクラスで勝つのなんて至極当然、高校生が小学生相手にイキリ散らしながら勝つが如く当たり前なんです。

その「勝って当たり前」なレースですが、ここに至るまでにはちょっとした苦労話があります。

まず私自身についてお話ししましょう。私は発達障害、並びにアスペルガー症候群を生まれつき患っています。皆さんも聞いたことがあると思います。世間的にはあまり良いイメージを持たれていませんし、何故か発達障害=天才!みたいな捉え方もされる時がありますが、実際は人間関係で苦悩したり、何気ない言葉で深く傷ついたり、キャパシティのコントロールが出来なくて仕事をこなせなかったりと、まあ相当生きにくいです。…いや、皆さんの想像する5倍は辛いですよ。そんなこんなですが、実は発達障害、特にADHDを持つ人は鬱病になりやすいというデータがあるんです。

まあそりゃ1つの失敗をいつまでも引き摺るような思考回路ですし、他人の言葉にとてもストレスを感じてしまうのであれば尚更。
私も例外ではありませんでした。大学進学後わずか半年。2020年11月には鬱病の兆候が見られました。
鬱病って一つの要因でなるわけではなくて、様々な要因が絡み合って鬱病になるんですが、私の場合は「真面目すぎたが故の燃え尽き症候群」+「丁度日本海側で雪が降り始める=日照時間が極端に下がる」事が主な要因だったと考察しています。勿論人間関係で悩んだりとかもしましたから、本当に様々な要因が重なっていたんだなと今更ながら思い返していたりしています。

2021年の年明けからは本格的に鬱病と闘わなくてはなりませんでした。今思い返しても本当に辛かった、というか現在進行形で辛いです。ですが2021年初頭の時点では、まだ鬱病を自覚していません。心も体も思い通りに動かず、違和感を感じつつも周りには大丈夫と言い続ける日々。小学生時代からの友人達との関係すらぶっ壊しても、自分が鬱病だと自覚することはありませんでした。そして限界に達したのは7月の第1週でした。
ふと朝起きると自殺願望が芽生えていたんですね。これはいよいよ不味いぞと。まさか俺が鬱病なのかと。それまでも時折「殺してくれぇ…」みたいな状態になる事はあったんですが、無意識に首を吊るための準備を始めていた時には本当に驚きました。

もうどうしようもないので、それまでも休みがちだった事で危うくなっていた出席日数を気にするよりも先にベッドに潜り込みました。そこから1週間何もせず…正確には自転車には多少乗っていましたが、本当に家から出る事はありませんでした。

そしてその週の新潟の国体予選とJBCF石川ロードに出場します()いや休めよ。
全く練習していないのにも関わらず、1kmTTで1分10秒台を出せた事や、決して得意とはいえない石川ロードのコースで最終局面まで先頭で展開できていたことが多少自信につながったのか、自殺願望は無くなりました。

それでも危うい状態は変わりません。インカレもたった4周、24kmでリタイア。夏休みは一度帰郷しましたが、それでも精神的には安定せず。結局友人達との溝を広げ、全日本学生個人ロードも南魚沼ロードも散々な結果に終わります。

南魚沼ロードの翌日。体調に変化が生じました。やたらと身体が軽いのです。今なら何でも出来る…そんな気さえしました。事実そこからの3週間はFEVER TIMEでした。何をしても楽しい…苦痛にすら思わない…。まあ弊害として行動に自制が効かない状態になっていましたが。
所謂躁鬱の状態です。ちなみにこの間、友人達から絶交宣言をされてます。当時のことは全く記憶にないですが、相当ヤバイことをしたそうです。

そして南魚沼から1ヶ月。さあ今日も張り切っていこう!なんて思っていた矢先、ふと股間に違和感が。脚を回すたびに激痛が走り、前傾姿勢が取れなくなりました。
後々調べたところ、股部白癬及び乾癬を発症していたことが分かりました。ようやく軌道に乗ってきたと思っていたところに突如落とされた特大の爆弾。自転車には一切乗れません。乗れたとしても2日に1回30分。ここから治療に半年を費やします。

しかし結果として自転車から少し離れられたからか、今置かれている状況に対して思考する余裕が生まれました。
11月に一度実家へ戻り、友人達と和解をする事ができたのも股部白癬を発症したお陰とも言えるでしょう。

年末年始も再度実家に戻り、少しリラックス出来たのか、ようやくここから精神的に安定し始めます。とはいえ股部白癬はなかなか完治しません。
2月にようやく良さげな薬を見つけ、9割方治ったと言える状態になったのが神宮クリテの1週間前でした。
実質1年半近くレースを完走せず、トレーニングも満足にできずと謂わばブランクを抱えていたので、当然ながらクラス3へ落とされます。

4月の飯山クリテでは身体が戻りきっておらず、トレーニング量もそこまで増やせずと、初心者同然の状態で挑みました。6月のTTTでは準備不足が祟って実質DNF。翌日の弥彦ロードでは無理に動いてDNF。

そんな中、ヴィクトリアマイルの動画を見て少し火がつきました。1年と1ヶ月、実質自分と似たような状況に置かれたデアリングタクトが勝ちを狙った動きをして6着入線。泣くほどの勇気を貰いました。そしてお前はまだやれると。復活できると。そう背中を押してもらえたような気がしました。

そして迎えた白馬クリテ。結果は皆さんご存知の通りです。
初日はうまく噛み合いませんでしたが、これは想定内。むしろ狙い通りまでありました。どのようなラインが最速か。コーナーで位置を下げないか。力を使わず平均速度を上げられるか。集団の力量は如何程か。これらを全て試して翌日に備えます。

白馬クリテDay2、クラス3C。何故かチームから6人出走、しかも他の組であれば確実に勝利できるであろう阿部ちゃんが同組。理想は自分と阿部ちゃんのワンツーでしたが、流石にそれは厳しそう。ここは集団がある程度追走すること前提で自分が逃げ、阿部ちゃんが集団待機という形で勝ちを狙います。
3周目に満を辞してアタック。ついてきたのは大阪産業大学の副島君(後で調べたら昨年のMTBのジュニアナショナル選手でした)。
コーナーの立ち上がりのキレ、独走力、パンチ力、全て今の自分より上でした。しかし本人も後に語っていた通り、必要のないペースアップが目立つことから経験は浅い模様。それならばこちらのペースに持ち込めれば主導権は奪える…。
おおよそ320Wで先頭を引き、後ろとの差を10秒以内に保ちつつ逃げれば目的であるワンツーの可能性はあると。

5周目に後ろから1名ブリッジを掛けてくるのが見えましたが、ここで追いつかれてはスプリント力のない自分にとって全ての択において不利。即座に脚を使ってペースを上げます。2周もすると後ろは諦めたのか12秒差。これなら後は後ろがギリギリ追いつけるようにペースを調整すれば良い…。なんて簡単な仕事だと思っていました。…この時までは。

8周目。まさかの28秒差。直角コーナーの多い白馬クリテのコースにおいて、28秒差はそれこそ絶望的。いくら集団の脚が揃おうとも、集団の数の利が働く速度域まで加速ができないコース故にそうそう追いつける差ではありません。レースは後5周程。どうあがいても単純計算1周6秒もの差を詰めることは不可能です。しかもこっちには種目違いとはいえ元ジュニアナショナルでめちゃくちゃ走れてる選手。後ろを待っても仕方ないので、こちらも勝利狙いに切り替えます。

副島君と自分でおおよそ55:45の割合で先頭交代を繰り返し、タイム差変わらず最終周回。少しだけつついてみますが案の定離れず。こうなったら勝つ手段はたった一つ。最終コーナーで鋭く前に切り込んで、ホームストレート入口の下り坂を利用した加速のアドを取ったゼロ加速からのスプリントです。本来なら自分の脚質的にゼロ加速勝負に持ち込むことは愚の骨頂ですが、タイミングをズラせれば話は変わります。そのためには前を引かないようにし、ギリギリのタイミングでインに切り込む必要がありました。目安は残り330m地点。ここで一気にインに切り込めれば勝てる…。そうイメージを構築しながらタイミングを待ち、一呼吸したその刹那!

スプリントを開始したのは副島君でした。

完全に不意を突かれた形になり、慌てて追うもスプリントが苦手な私では一度ついた加速度差を詰めることはできません。特にスプリント体制にすら入っていないタイミングでのスプリント開始でしたから、尚更追いつくことは出来ないでしょう。
ストレートに入ったタイミングで潔く諦め、流してゴールしました。

結果として少し不甲斐ない形にはなったものの、昇格(出戻り)は果たす事ができました。

1年半ぶりの先頭争い。ここまで戻ってこれた事そのものがとても感慨深く、また復活の兆しが見えてきたレースでした。
しかし今の自分にはインカレを走り切る力はありません。そういう意味でまだまだ復活と呼ぶには程遠いのかなと。ですので「兆し」とさせていただきます。
本当の復活は来年。それを楽しみにしていてください。

拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

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