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デフ・ヴォイス(4):愛想のない人ですね?

今まで、手話が出てくるドラマで「なにこれ」となっていた大衆向け作品には、歴史がある。長い間、聞こえない=孤独=手話 みたいな。手話を孤独のシンボルとしてつかおうとしてきた。

そして、俳優が手話を上手く使っている(ように見える)のを、ファンたちが賞賛する。私の推しは手話も上手。手がセクシーとかなんとか。うーん困った。

そこを越えるための試みを、「デフ・ヴォイス」の制作陣はしているのに、なぜかこのご都合主義にとどまりたいファンはいるようで、「草彅君の手話が下手とか、分断を深めないで!」というコメントがいくつか来た。うーん。それを言う権利をろう者や手話関係者から奪うのは違うと思うんだけど…。

正直、物語の設定上の荒井の手話があまりにも「かなり——一目でわかるくらい、ものすごく——できる」キャラクターなので、最初からそれができるとは思っていない。ネイティブだから巧拙を問うレベルじゃない。「あなた、英語上手ね」とネイティブに言われてる間は、あんまり上手じゃないみたいな話。

お気づきのように、視聴者の多くが手話がわからないからこそ、主人公に草彅さんを起用できた世界に私たちは住んでいる。世の中の30%の人がネイティブの手話がわかる世界だったら、草彅さんは起用できない。たった0.1%たらずの人しかわからないから、起用できたのだ。しかし、このタイトル、3つの意味の1つは、黙殺されてきたろう者たちの声だよ。このタイトルに反して、「手話の良し悪しを言って分断を深めないで」だって? ろう者の意見の黙殺はだめだと思うよ…。

思い出して欲しい。片貝弁護士=小川光彦さんが、その「難聴者ヴォイス」で話して、視聴者はびっくりしただろう。聴者には難聴者ヴォイスは完全に異質のものと映る。あんなに発音が良くて、何を言ってるかは全くわかっても、聴者なら、小川さんにどこにでもいる「聴者」の役が回ってこないのは、当然だと思うだろう。これと同様に、ろう者には、草彅さんの手話は、そのような「異質性」を持ったものだと理解しておく必要がある。

益岡さんを演じた山岸さんが「そのままじゃん」って書いたけど、森先生が言うように、いつもよりゆっくり話しておられるな、というのは、そうなのだ。目の前に「聴者」草彅さんがいるし、周りに何台もテレビカメラがあって、何テイクも同じシーンを撮っていたら、そりゃあ「完全にいつも通り」のわけない。

草彅さん演じる荒井が最初に冴島素子を訪れるシーン。原作でもリハビリセンターとして登場しており、かつドラマではなぜか「関東福祉大学」と、大学になっていた場所。

実は「ウチの学生」さんのほうが、草彅さんより手話が上手なのが、地味に違和感があった。素子に「なんで電話会話の通訳サボるの」って叱られてたあの学生さんのなめらかな手話の直後に草彅さんがやってきて、手話で話をして、「手話の技術はある」とか褒めるもんだから、手話がわかるろう者の視聴者が「?」となっている顔は想像できる。

まあでも、虚構世界のお約束もある。ここの仕掛けは結構面白かったので解説しよう。

荒井の手話の実力は?

想像上の荒井の手話は、ちらっと会っただけの手話通訳士試験受験者が頭をブンブン振って「あなたの手話きれいねえ!」といったり(この人突然何を言うんだと私も思った)、前のnoteに書いた「益岡さんは一発で荒井の手話をコーダと見抜く」「新旧語彙の使い分けができる」「ろう者の手話を適切な日本語にすぐできる」みたいな初っぱなからカリスマ通訳者みたいな側面を有する手話なのだ。「手話技能」の面で、小説通りの荒井を具現化して提示することは、不可能だ。もはや国内トップのカリスマコーダ通訳者かろう通訳者かなにかを「中の人」にして、CGで草彅さんの皮をかぶせるくらいしか解決策が思いつかない。丸山先生、映像化を狙うならもうちょっと下手な設定にしておくべきだったよ。

そして、荒井という人物描写が物語の核心にあり、彼の言語とアイデンティティは不可分だ。彼は、自分の手話や通訳技術について悩むことはない。実際には、コーダの手話通訳者だったとしても、大人の日本語や大人の日本手話の使用に自信を持てないという人は多いのではないだろうか。覚えた手話は家の外であまり使わず、家庭内の言語としてとどまっていた人も多いだろう。だから手話通訳学科で改めて日本手話を学ぶコーダもいる。荒井はそれをすっ飛ばして早速仕事をはじめるくらい、子ども時代に、嫌ってほど聴者の大人との折衝を家族の間でしてきたという背景がわかる「手話」と「手話通訳」なのだ。

当然のことながら、仮にも別の言語である日本手話を「一目見ただけでネイティブのそれとわかる」レベルに、完全に手話を知らなかった役者が数ヶ月で到達するのは、最初から期待できないのはあきらかだ。

物語の都合上、「コーダにはいろいろいて、荒井はある程度手話はできる」のであれでいい、というレベルで見るのも問題がある。物語の本筋からいって、荒井はネイティブの手話話者なんだと伝えないといけない。草彅さんのファンの人たちが「なんて上手な手話なんだ」とイリュージョンを見ているのは、別におかしな話ではない。そういう風に見えるように作ってあるのだから。(だいたい肝心の手話が見えないようなカットのシーンが多いし…これ、ろう者監督の映画だったらあり得ない演出かも)

ドラマ見物者のお約束

ドラマを見るお約束として「荒井の手話はものすごくうまい」ものと思って見る、という想像力が必要だ。手話を知らない人にはそのように見えるように作ってあるから安心して欲しい。加えて、手話がわかっている少数者にあてても「そういうお約束で見ようね」というメッセージがいくつか用意されている。

まず、ハートネットTVで手話指導の江副さんが「ろう者だからできる」と演技指導していた。つまり「ろう者じゃないとできないことがある」ということだ。それを切り取ってくるハートネットTVの編集者、よくわかっておられる。

日本手話の見分け方

では、ろう者の「ネイティブの手話」らしさとは何なんだろうか。これはまず、顔の各パーツの動きが言語的に使えることだろう。統語構造とか手指動作の正確さも必要ではあるが、そもそもこの「顔の動き」が、必要な箇所で正確にできることが、文法を正しく扱っていることに直結している。

東京オリンピック・パラリンピックの開会式・閉会式で「手話の人」と呼ばれた手話通訳者がテレビ画面に映ったのを見て、旧Twitter上で「顔の動きがやべえ」「ディズニーのキャラクターみたい」みたいなコメントが散見された。言い方はちょっと…と思うが…… このテレビの「手話通訳者」たち、実はろう者の手話通訳者だった。これがネイティブの「日本手話」なのである。ざっくり素人でも分類できるとすれば、「顔がめちゃめちゃ動く」のが日本手話だ。とにかく聴者とは顔の筋肉の動かし方も、可動範囲も違う。(ランダムに動いてるのではだめなのだが)

日本手話は、あまり表情筋を使わない日本語人には、顔の動きを習得するのが難しい。Eテレの日本手話を学ぶ語学番組「みんなの手話」では、顔の体操まで提供されている。そして、その顔の動きは手の動きと連動して必然性のあるタイミングで動かさなければならない。すぐにはできるようにならない。手話を第一言語として習得する赤ちゃんでさえそうだ。第二言語学習者はめっちゃ苦労している(私だ)。

愛想がない? 顔の動きがない?

荒井の顔の動きについては、手話指導の江副さんから、ドラマの中でさりげなく「見方」を説明していたのを覚えているだろうか。手話話者は見逃さなかっただろう。冴島素子の同僚の先生役に扮した江副さんが、荒井が帰ったあと、日本手話で「顔の動きが全然ない能面だけど、通訳 大丈夫?」と言ったのだ。日本語字幕では「愛想のない人ですね  大丈夫ですか」となってるんだけど。これ、手話がわかる人には「荒井は非手指要素の表出は控えめだよ、でも上手い設定だよ」ってさりげなく「想像上の荒井」の見方を提供している台詞だろう。一方で日本語字幕しかわからない人は、草彅さんの感情面での演技=愛想がない面を際立たせている。

こんな翻訳の使い方あったのか。

手話わかる人へ手話指導担当者からの見方の「お約束」が提供され、手話わからない人には別の面に注目するように誘導している。 言語的なメッセージは受信者に委ねられ、いくつかの解釈ができるようになっているとはいえ……(え、深読みしすぎ? この仕掛け誰が作ったの?)

そして「技術はある、通訳は、まあ大丈夫よ」みたいなことを冴島が言った後、益岡さんのシーンになって、大人の日本語で見事に通訳の仕事を果たす荒井が出てくる。よくできてる。

「手話での演技」は言語的制約に大部分を支配される

なんかもう、手話指導&手話演技ってたいへんだな、と思ったのは、舞台裏の番組(ハートネットTV デフ・ヴォイスの裏側)を見て、とんでもないことに気づいたからだ。

本物のろう者のなかに手話素人の聴者の役者が入るとき、「言語」的な要素は細部にまで及ぶ。本物がいなければ、「聴者に手話で話していると伝わればよい」、どうせ字幕でみんな見る、みたいな妥協点があって、それがこれまでテレビで我々が見てきた手話だったかもしれない。

だって、手話の言語要素は、顔の表情も、手話の速さも大きさも、姿勢もそうなのだ。ともするとかなりの部分「マリオネット」にならなければならない。つまり、指示されたとおりにすべての身体部位の動きを再現できるのが最低ラインだ。「顔の動き」「タイミング」「姿勢」「視線の方向」「まばたき」、ニュアンスは「スピード」。手話の音韻体系に許される範囲でやらねばならない。

さらに会話。変なタイミングでうなずいてはいけない。ポイントを押さえて、相槌としての頷きを出さないと、本物のろう者は、テンポ良く話ができない。当然、手話で何言ってるかだけでなく、どんなテンポで話しているかを把握してないと相槌はだせない。——草彅さんがダンスだといってたのはこれかなあ。

ハートネットTVの舞台裏で草彅さんが「何回か指差しを繰り返すと菅原さんを怒らせた説得力がでるんじゃないか」と手話指導者に相談していた。江副さんは「ここは繰り返すところでイラッとしているのであって、指差しは違う」とした。指差しは代名詞なので、何度か繰り返していると、語をダブって言ってるか、文法エラーかにしか見えず、別にイラッとしない。指差しを何度もされてイラッとするのは日本語人の文化である。聴者がジェスチャーと見ている要素が、ただの語になってる言語的差異を舞台裏で見せてくるとは、メイキング番組作った人よくわかってる。

そもそも、ろう者は別に手話を話し始めなくても、たたずまいや視線の動きだけで「ろう者」を雑踏から見分けることができるという(ただの学習者の私にはむりだ)。そんな「視覚が敏感な」ろう者の視聴者に説得力があるイメージを提供することは、難題だ。

「演技」は、身体表現だ。「台詞回し・抑揚」「リズム」「声色」「表情」「身体の動き」などによって構成されている。役者は全身を使って表現し、観客の感情的反応を引き出す「媒体」だ。しかし、手話の言語的な要素として指定される「表情(顔の動き)」とか「リズム」とか「姿勢」を押さえた上で、物語上の「演技」として成り立たせるというのは、かなり窮屈な作業だったのではないだろうか。その制約のきついなかで、説得力のある演技を提供してくるんだから、草彅さん、さすがの一言に尽きる。

吹き替えがある音楽、ない手話

手話は身体表現だから演技するのが厄介だったんだ。なんで今までちゃんと考えたことがなかったのだろう! これが、音楽ものだと、ちゃんと楽器演奏の部分は吹き替えられるんだけど、手話だと、手や顔の動きだけ吹き替えとかできないので——今の技術ならできるかもしれないけど——、「ある程度目をつぶって」見ようということになる。あ、目をつぶったら、何が起こってるか全部見えないけど…(聴者が目をつぶって見られるのは、耳が聞こえるからだよ)

手話の言語的要素は、演技の大部分に及ぶ。もし荒井のような手話が使えるコーダで俳優、「ただの本物」の荒井がいたら、もちろんその人が演じられるのがよかったというのは本当だ。アイヌの宇梶さんが、アイヌ語で演じたように。ただ、業界に宇梶さんがいなかったのだ。そして荒井のメンタリティを表現するのに、草彅さんは確かに適役だと思っている、私は。そしてすごい結果を見せてくれてもいる。その「すごさ」は、盲目的な「手話上手い」じゃない。それにファンの人たちは気づいたほうが、より草彅さんのすごさがわかると思うけどな。

そんな中で朗報があった。荒井の少年期はなんと、荒井兄役の田代英忠さん(ろう者)の息子さん(田代康生さん、聴者)だったという。このようなドラマが増えれば、聴者の役者でも二世、三世がいるように、「親について撮影現場に行ってて親の背中を見て自分も役者になりました」みたいな二世役者として、ろう者だけでなく、コーダ役者が育っていくかもしれない。期待して待とう。


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