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きみはデロリアンに乗れるか?

「ゆたかさ」ってなんだろう。お金をたくさんもっていることとか、時間を自由に使えることとかそういうことじゃない。「天才とは99%の努力と1%の水だ」と、どこぞの笑いの鬼才が言うように、カピカピに干上がった人間にせめて70%までうるおいをあたえるような日常の一部にこそ「ゆたかさ」は紛れ込んでいると思う。そんなふうに、もっと誰でも手に入れられるような、大きなパワーがなくても大丈夫なことで「ゆたかさ」を感じれないものだろうか。そんな前提でかんがえてみたら、毎日の歯みがきみたいに習慣になっていることの中にヒントがあった。

ぼくが考える「ゆたかさ」とは「過去を振り返る方法を持っていること」だ。もっと具体的に言うと「日記」だ。記録をつけていくことだ。

人類史をみても、記録を残していくこと、それを読み解くこと、そして後世に残していくこと、この連続であるように思える。ロゼッタストーンも孫氏の兵法も、残しておく必要があったから書かれたものだ。ぼくの日記が後のトーマスヤングに解読されることはないけれど、自分で自分の歴史を振りかえることができることって、歳を重ねるにつれて味わい深くなるんじゃないだろうか。たとえば、2011年7月15日、この日はぼくの高校野球生活が終わった日だ。2013年1月20日、この日はぼくの浪人受験が失敗した日だ。両日の日記を振り返ることで、共通している失敗の原因がみえてくる。今でもこの日を振り返るのは、心をえぐるような気持ちになる。だが定期的に立ち返ることで得ることの方が多い。歴史に学ぶというのはこういうことをいうんじゃないだろうか。

同じように、ぼくは日記だけでなくなんでも記録に残しておくことが癖になっている。特に気に入っているのは2つ。読んだ本の内容はルーズリーフにまとめてファイリングすること。素晴らしい本も一度読んだだけではぼくは忘れてしまう。そんなに丁寧にまとめると続かないのでざっくりとでいいと自分に妥協を許しているのも悪くないなと思っている。続けていると「あ、これ別のあの人も言ってたな」とか「あの人とは真逆のこと言ってるな」とか発見があっておもしろい。

もうひとつはiPhoneのメモに、いいなと思ったフレーズや、友達に仕掛けるいたずら、自分の特徴、将来の家庭のことなどなんでも残している。ぼくは自分の脳をWindows95くらいのスペックだと思っている。保存できる容量はほんとにわずかなので、日記・ファイル・メモを外付けHDD替わりにして、脳の拡張を試みている。このHDDの記録の中から、友達が喜んでくれるアイディアとかが出てくることがあるのだから捨てたもんじゃない。

もしぼくが何も記録していなかったとすると、これまで過ごしてきた日々のワンシーンや、どんなものの見方をしていたのかを二度と鮮明に思いだすことはない。仮に思い出せたとしても、美化して自分にいいように切り取ってしまうだろう。だが、記録に残っている限り、忘れたくない感情も、苦しかった想いも、今が最高だと信じた思い出も、文字を通じてタイムトラベルできる。酸いも甘いも噛み分けた日々を、記録した文字によって再体験できること。これが「ゆたかさ」のひとつであると信じて今日もぼくは記録を残す。

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