見出し画像

誰も書かないサザンオールスターズの話

サザンオールスターズという奇跡について、あなたはどれくらい知っているだろうか?

例えば、勝手にシンドバッドというデビュー曲がある。当時流行っていたピンクレディの「渚のシンドバッド」と沢田研二の「勝手にしやがれ」を組み合わせただけのタイトル。レゲエ、サンバ、R&B……あらゆる異国の音楽を融合した、これまで日本になかった音楽。夜のヒットスタジオで黒柳徹子に「あなた達はアーティストですか?」と問われ、桑田佳祐が「いいえ、目立ちたがり屋の芸人です」とおちゃらけて、青学の後輩達をエキストラに呼びこの曲を披露した夜。

当時から今に至るまで、サザンオールスターズが日本の音楽業界に与えてきた影響を語ればきりがない。それほどまでに、彼らが残してきた爪痕の大きさは計り知れない。

が、「サザンオールスターズで辿る日本の音楽史」を論じろうとすれば、インターネットが発達した世の中には、無数の文章が転がっている。

だから今日は、おそらく誰も語っていないであろう、サザンオールスターズという奇跡を、一言で語ってみようと思う。



なぜなら、来週サザンは45周年だから😉



サザンの唯一にして最強の魅力。それは、人間らしさにあると思う。

すると、人間らしさとは何か、という問いにぶつかる。

この答えは人の数だけあれど、サザンという文脈で語るとなれば、確たるものが少なくとも僕の中にはある。

それは、「泣きながら笑う」ということ。

人の心は単純じゃない。悲しくて泣くだけでなく、嬉しくて笑うだけでなく、もっと繊細な感情の機微を、人の心は孕んでいる。その複雑さへの救いを埋めるために、あらゆる創造性は発揮されるのだとも思う。人の心が単純なれば、あらゆる営みは0と1で表せる。だけどそう、世の中ってそんな簡単じゃないよね〜。わかってる。だからこそ。

それをメロディに乗せて歌にするとき、人は言うも知れない感情にかられる。それが、人間らしいということなのだと思う。

よくサザンオールスターズの音楽性を語るにつれ、英語のように聞こえる日本語の歌詞が新しいとか、明るいメロディの中に潜むM7が効いているとかという話がある。理性で彼らの音楽を紐解いていけば、間違いのないことだと思う。

だけど同時に、それは音楽というテクニックの話にすぎないと思う。

彼らが英語を日本語のようにリズムに乗せて歌うのも、明るいメロディの中にM7を潜ませるのも、彼らの人間らしさの表出である、という気がしてならないのだ。海外への憧れと、日本人としての限界に苛まされ、苦渋の中で自己を肯定しながら、加齢という不可逆性を受け入れて-ーそれが多くの日本がそうであるようにーー生み出されてきた曲が、勝手にシンドバッドであり、いとしのエリーであり、チャコの海岸物語であり、ミス・ブランニュー・デイであり、真夏の果実であり愛の言霊であり、TSUNAMIであり、愛と欲望の日々であり、東京VICTORYなのではないか。

(そういう意味でいうと、桑田佳祐の「ヨシ子さん」は、彼の創造史上初のオリジナルだと思うのだが、それはまたの機会に……)

来週、というかこの週末。サザンは45周年を迎える。半世紀に迫る勢いである。彼らのデビューを見た人が結婚し、子どもが生まれ、その子供も彼らを認知している、それくらいの歳月だ。そこで発表される情報がなんにせよ、きっとその音楽は、あなたの琴線を揺らすと信じている。

なぜなら彼らの音楽は、あなたの記憶にある「泣きながら笑っている」ものを呼び覚まし、否定するも肯定するもなく、まるっとそのまま受け入れてくれるからだ。


サザンオールスターズの素晴らしさは、45年経った今でも変わらず、人間らしさを歌にすること。


この夏は、忘れられない季節になる。はず。






今週の質問:言われて、耳にして、嫌だった言葉

差別的な言葉は、なんにせよ言われて耳にして嫌な気持ちになります。国籍や性別で人をラベリングする言葉。

まぁでもそんなものは淘汰されて当然なはずなので(今日の我が国は哀しきかなそうなってないけど)、至極個人的なことをいいます。



それは……



つまらない。


という言葉です。類語で、面白くない。というのもあります。


なーんにもない自分にとって、面白くてユニークで、奇想天外で摩訶不思議なことが存在価値なので、それを否定されると三日三晩寝込みます。


でも4日目から「あいつの方がつまんねーよな」と思い直し、なんとか生きることができてます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?