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科学とジェンダー

女性優遇のアファーマティブ・アクション

現在日本で行われている女性優遇のアファーマティブ・アクションに対して、「年輩の男性研究者が自分たちが不当に得てきた利益のツケを若い男性研究者に払わせている」という見方を、ネット上でよく見るようになったが、この見方は間違いだと思う。

現在日本で行われている女性優遇のアファーマティブ・アクションは、「男性プラス1、女性マイナス1」を「男性マイナス1、女性プラス1」にする、というような性質のものではない。「男性プラスマイナスゼロ、女性プラスマイナスゼロ」を「男性マイナス1、女性プラス1」にする、というような、純粋に差別的な性質のものだ。言うなれば、若い男性が払わされている「ツケ」は、実際に他の誰かが飲み食いした「ツケ」ではない。詐欺師のぼったくり屋が勝手に用意した、どこにもない「ツケ」だ。

女性科学者はなぜ少なかったか

女性がアカデミックポストを得られない制度的な制限など、この数十年、ほとんどあったことはない。その証拠に、女性でアカデミックポストに就いた人は昔からいる。もう引退したり死去したりしている世代にも、いくらでもいる。

年配の男性研究者は、別に楽をして不当にアカデミックポストに就いてきたわけではない。彼らと同じだけの努力をして、彼らと同じだけの才能のある女性が、少なかっただけだ。

(もっとも、年輩の「勝ち切った」男性研究者が、権力を持った女性に阿るために後の世代の男性に無茶苦茶な負担をかけるのは、断罪されるべきことだ。「彼らが飲み食いしたツケ」を若い男性研究者が払わされるからではなく、「彼らがでっちあげたありもしないツケ」を、若い男性研究者が払わされるから。閑話休題。)

彼らは研究者同士の競争に勝ってきただけだ。その時代には、今とは違い男性と女性で別の基準はなく、同じ基準で評価されたので、優秀な者だけが生き延びた。そして、それは多くが男性だった。

女性が昔からアカデミックポストに少ししか就いてこなかったのは、そうやって地位を得なくても女性なら「嫁の貰い手」はいくらでもいるから、あえて茨の道に進まなかった、というだけだろう。

それはかなり本能的な「選好」の問題と言えるかもしれない。人類全体の発展のために科学を進歩させる――そういう大きな目的のために自分を犠牲にする性質が男性にはあって、女性にはない。それは人類が進化の過程で獲得した性差なのだろう。

死後の名声を生前に要求する女性たち

学者は、生きている間は昼行灯のような扱いを受けて、その名声は死後になってやっとやってくる(ことも稀にある)。しかし、その死後の名声を見た「目覚めた女性」たちは怒る。「なぜその名声が我々にはないのか! 差別だ!」そう言って、死後の名声を生前に得られる権利を要求する。

「男が働き、女に与える」――それが人類が長いこと守ってきた、馬鹿げた性役割だ。だからここでも男性は、「女に与えろ」と主張されると、このジェンダーロールに従ってしまう。ブルーカラーの男性が働いて築いた国庫で補助金が作られ、女性の学者ごっこに予算が割り当てられる。

女性が進路を制限されているという嘘

さて、話は変わるけれど、「女の子は周囲から『女には学はいらない』と言われて進路を制限されるんだ!! ギャー!」という与太話を、私たちは耳にタコができるほど聞かされてきた。

性別を理由に学業について周囲から口出しされる率は、男子の方がずっと高い(I-特-19図 育て方における家族の意識(勉強について) | 内閣府男女共同参画局)。この程度の統計を見てから喋ってほしい。

女性科学者が過小評価されてきたという嘘

もう一つ別の話。「女性の研究者の業績は過小評価されてきた」という、あまりに馬鹿げた与太話もある。何の根拠もない。

アリストテレス、ニュートン、アインシュタイン――古代から現代まで、偉大な科学者には男性が多い。だが、彼らと同列に列せられる女性が少ないのは、同じくらい立派な業績を上げた女性が実際に少ないからだ。女性の業績だから過小評価されるということはない。事実、女性であっても立派な成果を上げているキュリーの偉大さを、誰が疑うだろうか?

ちょっと前のことなので詳細は忘れたが、こんな感じの大意の、あまりに馬鹿げたツイートを見た。

「自分が通っていた大学の女性教授にウィキペディアの記事がない! 訳書を何冊か出していて偉い先生なのに! きっと女性差別のせいで女性の学者は低く見積もられているせいだ!」

あまりに馬鹿げていて唖然としてしまった。その道ではちょっとばかり知られているようなちゃんとした学者で、何冊かの訳書どころではなく大部な著書をいくつも出していても、「その道」が狭い分野でそれほど有名でないためにウィキペディアに記事のない男性科学者など、いくらでもいる。

科学者が女性であるというだけで「もっと高く評価されるべきだ」「高く評価されないのは女性差別のせいだ」という妄想を繰り広げる人は多い。そしてそれが往々にして、「女性だから」という理由で真に受けられてしまう。

そういえば、まともな成果もないのに大学者として祭り上げられ、不正が発覚して周囲に自殺者まで出した、若い女性がいたではないか。彼女がもし男性だったら、ここまで過大評価され、不当に祭り上げられることはなかったのではないだろうか。

付記

ヘッダ画像はWikimedia Commonsから。

付記2

すぐに修正する余裕がないことがまことに力不足であるが、いずれ本稿を改稿したり、本稿を別の記事を書くための参考にする場合に備えて、本稿のうち議論の余地のある部分について、少し覚書を残しておきたい。

カムショット・マリファナコカイン・ハードコアポルノ氏(面白い名前である)から、「もう一つ別の話。「女性の研究者の業績は過小評価されてきた」という、あまりに馬鹿げた与太話もある。何の根拠もない。」の部分(の元ツイート)に対して次のような指摘をいただいた。

この部分には私の筆の走りすぎという要素が大きいので真っ向から反論することはできないのだが、私の舌足らずさを言い訳しつつ、所感を述べたい。

まず、私の主張としてはどちらかといえば「現在」に視点を置いていたのでこういう書き方になったという点がある。また、どちらかというと私の意図したところは後世の科学史的な意味での「評価」であった。私としては個別具体のケースというよりは、全般的に「女性科学者が(あるいは女性科学者による科学的発見が)過小評価されてきた」という傾向性があったかといえば、その根拠が示されることがないので、それを当然の前提とするならば嘘になると思う。そういう視点で、「自分が通っていた大学の女性教授にウィキペディアの記事がない!」のような主張が自然に人の口をついて出るようになったことの問題を指摘しておかなければならないと考えたのであった。

ロザリンド・フランクについてはnekojita氏からの次のような指摘もあり、考えあわせなければならないと思う。

同時代には正当に評価されたわけでなく、後代には正当な評価を得ているという点では、別に女性であったわけでもなくて貧しい在野の学徒として過ごしたファーブルのような場合も思い合わされる。

ところで、過ぎ去った時代における女性が大学の学問に参与することの困難さは考慮したとしても、それがどういった性質のものだったのか、という問題もあろう。現代一般的な科学とジェンダーに関する歴史認識では、男性が負わされたジェンダーロールや、女性の選好に対しての考慮が欠けがちであると思う。現代社会のイデオロギーはそれに対してなんら返答を与えてはくれないし、私たちは右往左往しながら真相に近づかなければならないのであろう。

まことにまとまりのない話になってしまい、かえってよくない気もするが、とりあえず今のところはここまでとしたい。

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