バーチャルアバターとバーチャル存在 -VTuber思弁前編-

※編集記録
7/12 思考モデルとして導入していることを明記
7/16 改題と後半投稿
VTuberは何を失ったか? -VTuber思弁後編-


何故書いた

 最近色々コンテンツについて考えることがあり、浅く知っていた程度であったVTuberをそれなりに見た。
 面白さがなんとなくわかってきたところで、1年程前、VTuberしょーもなくなったな的な話をして、みんながワイワイしてたことを思い出したため、そのころの記事を読んだ。色々思うところがあり、ちょろっと喋るくらいだと論点が多すぎて意味不明なことになりそうだったのでまとまった文に残そうと思った。

構成

前編:まずは自分の考えてたことを話す
 ・バーチャル存在の在り方
 ・今流行ってるVTuberは何が優れているか
後編:そして昔語られたことについて思ったことを話す


バーチャル存在の在り方

 現在あるものたちを何らかのマップへとりあえず配置し、思考を整理するために、道具を用意する必要がある。
 この章では分析をしていく道具を用意するため「VTuber」という存在のあり方について考えていく。 


 「VTuber」という語は「Virtual」「Youtuber」という成り立ちができている。ここでのVirtualは、生身の人間がやるYoutuberと対比して何らか存在が「バーチャル」である、という意味であると考えて差支えないだろう。
 この「バーチャル」とはどのような在り方を示しているかについて考えよう。これについては、大別して2種の受け取り方がある。

 ・キャラの外見及び設定において定義されるバーチャルな人格が存在している(バーチャル人格)。
 ・キャラの外見及び設定を仮想世界でのアバターとして利用しており、現実世界にそのアバターとは異なる身体を持つ人格がいる(バーチャルアバター)。

 これを1つ目のモデルとして導入しよう。もちろんモデルというものの性質上、厳密に応用しようとすれば単位時間ごとにドリフトしている、とか、間のどこかの値を取っている、という形態が想定される。だが思考の上では近似的にどちらかと考えても差し支えにならないケースが多いと考えられるため、単純な二分を基礎的なモデルとして考えてみることからはじめていく。

 現在(2021年7月)において、大半のYoutuberについて、後者の「バーチャルアバター」型受容を想定したものが一般的であるように思われる。

 二種の存在様式について、「バーチャル人格」はキャラクターの破綻を迎えると、(視聴者の認識上は)「バーチャルアバター」型の存在として受容されると考えられる。
 キャラクターの破綻というのは何だろうか。これは視聴者がバーチャル人格を見ることができなくなっている状態を想定している。(よって視聴者によっては最初からすべてをバーチャルアバター型として認識している、ということもあるだろう。)

 さて、少なくとも今日では、VTuberにおける「Tuber」という語には「動画投稿(YouTuber)」「生配信(配信者, Streamer)」の二つの要素が内包されている。特に大手事務所などに所属するVTuberはどちらかといえば「生配信」の要素が強い。
 
 生配信がもつ、リアルタイムかつ自由に発されるコメントに対するアドリブの返答は、ほぼ生のコミュニケーションに近い解像度を持つ。すべてがその人格から発されるリアルな返答になる「バーチャルアバター」型存在においては、存在の強度を高めるために非常に有効な手段である。一方でキャラクター像に沿った返答を求められる「バーチャル人格」型存在にとっては非常に破綻を招きやすい表現である。実存の人格であると認識されている「バーチャルアバター」型においては、イメージから外れる言動があったとしても、新たな面が見えたと興味深く受け止められる。一方で、そもそも本当は虚構の存在である「バーチャル人格」型では、キャラ像に対する違和感はキャラクター像の更新に寄与する前に、多くの視聴者を現実へ引き戻してしまう。
 こう考えると、「バーチャル人格での生配信」の問題はリアルタイムロールプレイの難しさよりも視聴者の認識にある。よって、「バーチャル人格」が現実に存在する人間として解釈可能であれば、「(視聴者にはバーチャルであることを明示していない)『バーチャル人格』がバーチャルアバターとそれと異なる現実の身体を持っている」いわば「偽装バーチャルアバター」型という形式をとることによって、生配信に対して頑健なバーチャル人格を存在させることが可能である。
 これは当然だが、ユーザー側から見ると「バーチャルアバター」型と区別がつかないため、現在もある程度の割合で存在していると考えることもできる。(合理的に判断するならば存在しているだろう。) 

 「バーチャル人格」を想定してコンテンツを作成しても(特に生配信により)「バーチャルアバター」として受容されるリスクがある。一方「バーチャルアバター」はほぼ確実に「バーチャルアバター」として受容される。そして「バーチャル人格」としての需要のみを想定したコンテンツが「バーチャルアバター」として見られてしまっている場合というのは、おそらく視聴者は冷めてしまっている状態だ。このような状況を考えたとき、存在のあり方に特段こだわりがなければ、生配信という手法の選択が可能、かつリスクの低い「バーチャルアバター」型の受容を想定してコンテンツを制作するのが無難といえる。
「存在の在り方」について特段のこだわりがある場合ーー言い換えれば、「バーチャル人格」の描写自体が目的に含まれる場合のみ、視聴者に「バーチャル人格」型受容をさせる必要がある。ただ前述のとおり、現実の人格として不自然でない人格であれば「偽装バーチャルアバター」型をとればよいため、「バーチャル人格」型を採用する必要のあるケースというのは、フィクション的な人格が「バーチャル人格」として存在することを表現をしたいケースに限られるだろう。

かくして「バーチャルアバター」(および「偽装バーチャルアバター」)型のVTuberが世界を覆った。

まとめ

・バーチャル存在は「バーチャル人格」「バーチャルアバター」という2種の存在様式に分けられる。「バーチャル人格」は設定によって記述されているある人格が存在していると認識される。対して「バーチャルアバター」は現実に存在する人格が仮想空間にてアバターを用いていると認識される。現在はほとんど後者。
・「バーチャルアバター」型はキャラ性から外れた言動が面白さにつながるが、「バーチャル人格」型は虚構だと知ってるから現実への引き戻しにつながってしまう。虚構だとばれてなければOK(=「偽装バーチャルアバター」型)
・特にこだわりなければ「バーチャルアバター」型が無難。

今流行ってるVTuberは何が優れているか 

 本章では現在流行している大手事務所系のVTuberについて、何が優れているかを検討していく、VTuberは「YouTuber/配信者」「キャラクターコンテンツ」的な側面を持っているため、この両面について既存のコンテンツと比較し、優れている点を挙げていく。
 バーチャルアバター型VTuberはこの両者に対していくつかの利点を持っている。

YouTuber / 配信者として

Youtuberまたは配信者としての側面に着目すると、まず最も重要なのは
・ルックスを自由に選択できる
という点である。これは重要ではあるが自明であり散々語られたことなので取り立てて説明はしない。

・ゲームを素直に楽しめる

バーチャルアバターというのは「大人らしくない言動」を肯定するような効果がある。
ごっこ遊びやゲームに全力になることには一定のブレーキがかかるが、一方で全力であればあるほどプレイヤー自身も見ているほうも楽しいものだ。バーチャルアバターはそのブレーキを少し緩めてくれる。
Minecraftという巨大なごっこ遊びとの相性の良さは、仮想現実空間としての場を提供する性質がバーチャルアバターと嚙み合ったことが一つ大きな要因として挙げられるが、私はそれと同じぐらいこの「童心に帰れる」効果の寄与も大きいとみている。


キャラクターコンテンツとして

 VTuberをキャラクターコンテンツとして捉えたとき、特色的な魅力とは何だろうか。それはおおむね下記のようなものであろう。
 
 ・コラボで掘り下げられる各キャラクター同士の関係性
 ・常に更新され続けるキャラクター性および関係性
 ・ミームのフィードバックの速さ
 ・キャラクタ―との交流可能性

これらを眺めてみて、一番近いものとして東方Project+x次創作+ニコニコ動画が思い浮かぶ。この比較により、このすべてを公式の中に内包した上にさらに要素を足した、というある種のキャラクターコンテンツのラスボスのような姿が見えてくる。
(さすがにもう誰か同じこと言ってるかな~と思って検索したら出てきました https://note.com/niwashi_maki/n/n0911e0b6215e )

まとめ

VTuberは
・YouTuber / 配信者としては、ルックスを自由に設定できる点、素直に童心に帰ることを可能にするという点で優れている
・キャラクターコンテンツとしては、東方プロジェクト+二次創作+ニコニコ動画が持っていたほとんどの要素を持ったうえでフィードバックサイクルが早い、キャラクターと交流が可能という点で優れている。

後編へ続く
VTuberは何を失ったか? -VTuber思弁後編-

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