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バルカン旅行記【前編】

本旅行記は12月26日から1月13日の三週間にわたってのバルカン諸国旅行の記録である。英国に留学中の大学生である私とその親友とで行われたこの旅行をなから自己満足としてここにNoteという形で記すことにした。ただし不幸にも筆者である私には旅行中にでくわした事象を深く洞察する観察力もなければ、それを文章にする力も欠けている。故にこの旅行記はネットの海を数ある旅行記の中で浮沈するような凡庸あるいはそれ以下のものとならざるを得ない。それでも読んでくれる人がいること、そして楽しんでくれる人がいることを祈り、旅行記を書くこととする。なお本記録は前編、中編、後編の3部編成となる予定である。


トルコ

 2023年12月26日、私はヨーロッパ最大の都市にして欧州とアジアの結節点、イスタンブルにていきなり途方にくれていた。これから3週間一緒に旅する友人とイスタンブルで落ち合う予定であり、私は少し彼より少し早めに到着する予定だったのだがなんと到着する空港を間違えており、待ち合わせのイスタンブル国際空港から東に大体50km離れたサビハ・ギョクチェン国際空港に到着してしまったのだ。Google Flightでイスタンブルに到着する最も安い航空券をたいして確認もせず予約したことが裏目に出た。とりあえずお腹が減っていたので空港内の店でチョコレートバーと水を買ってそれをぼりぼり齧りながらベンチに腰掛けてどうしたものかと考えることにした。現在は現地時間で朝6時、友人はあと2時間ほどでイスタンブル国際空港に到着する。2時間で50km移動となれば一番は車だろうがあいにく国際免許証はない。タクシーを使うことも考えたが、見知らぬ国でタクシーを使うことは怖かったので(トルコ語もほとんど分からないので)最終手段とすることにした。他に手段がないだろうかと考えているとふと閃く。日本での話だが、羽田空港と成田空港の間にはシャトルバスが走っていて、空港を間違えた人がよくそれを利用していると聞いたことがある。その話を聞いたときは空港を間違えるなんてとんだ間抜けがいるものだと思ったが、まさかその間抜けが自分になるとは思いもよらなかった。ともかくトルコにも似たようなバスがあるのではないかと思いスマホでいそいそと調べてみると果たしてあった。Hvaistという空港シャトルバスがあり、このうちHvaist-13がサビハ・ギョクチェン国際空港とイスタンブル国際空港を結んでいるのである。しかも所要時間は2時間弱で値段は€5程度!これはなんとかなりそうである。そういうわけでチョコレートバーを食べ終わってからベンチをたち、朝早いからか眠そうなインフォメーションセンターのお姉さんを叩き起すようにしてバス停の位置を尋ね、空港をでた。そしてワッと押し寄せてくるタクシーの勧誘をかわしながら、お姉さんに教えられたバス停に向かったわけだがここで再び困る羽目になる。バス停というからには目的地ごとに停留所があり、バスが秩序だって停車しているのだろうと思っていたのだがそんなものではない。そこは空港前の空き地をコンクリートで一応舗装し、そこに適当にバスを詰め込めるだけ詰め込んだという代物である。その時は早朝であり全く暗かったのでもしかしたらちゃんとした場所もあったのかもしれないが、お姉さんに案内された場所はここであり、このぎゅうぎゅう詰めのバスの中から自分の目的地行きのバスを探すのかと思うと少々うんざりした。バス出発まであと30分。10分ほど「バス停」の中をうろうろ歩いていたが私と同様にバスを探しているような旅人が周りに何人かいるのでもしかしたら誰かに何か聞けばどのバスか教えてくれるかもしれないな〜と考えていると、目の前で一人のモロッコ人の女性が運転手に何か話しかけ、しばらく話したあとスーツケースをバスのトランクに入れようとした。この人ももしかしたらイスタンブル国際空港に向かうかもしれないと思って話しかけることとした。聞くとこのバスはイスタンブル国際空港に向かうという。感謝してしばらく話していると今度は私が周りの旅人から話しかけられた。ドイツ人の若い男性とロシア人の年配の女性の2人組でこのバスはイスタンブル国際空港に向かうのかと聞かれたので「そうだ。」と答えた。その後最初のモロッコ人を含めた4人でバスに乗り、乗った後もしばらく話していたが早朝だからか1人、また1人と寝ていき私もドイツ人のお兄さんに何やら話しかけられながらぼんやりと明るくなってきた地平線を眺めているといつの間にか眠りに落ちた。

起きるとちょうど日の出とともにイスタンブル国際空港に到着した。流石にトルコの威信をかけて作られただけあり立派なものである。とりあえず時間の余裕もあまりないので先ほどであった3人に別れを告げて私は空港に向かった。空港内はまだ朝だというのに忙しい。殊にイスタンブルはアフリカからアジア、ヨーロッパ各国をつなぐ世界のハブ空港である。周りの人々は世界各国から来ているのだろうか、色々な人種の人がおり、聞こえてくる言語はロシア語、トルコ語、ギリシャ語、中国語、他にも自分の知らない言語と多彩である。とりあえずこの多種多様な人混みをすり抜けるようにして両替所に向かった。一万円ほどトルコリラにおろして、ついでに近くのスーパーでエナドリとスニッカーズを買ってから友人との待ち合わせ場所に行く。ここで少し私と友人の紹介をしておこう。

イスタンブル国際空港の待ち合わせ場所

 私と友人は一橋大学地歴同好会EINSに所属している大学生である。私は一橋大学に在籍しているが、この旅をしていた時から現在に至るまでイギリスの某大学に留学中の身である。ビザンツ帝国の歴史を勉強することが好きでつい先日もビザンツ帝国の重装騎兵カタフラクトについて記事を書いたばかりである。そして友人もまた一橋生であり、地理と旧東側諸国をこよなく愛する。彼とは一年生の時の二外(ロシア語)の授業で知り合った。以来頻繁に遊びに行く仲であり、サークルもEINSだけではなく大学合唱団にも二人でともに所属している。彼の性格はとてもおっとりとしていてマイペースであり、そして逆に私の性格は先の空港を間違えたことからわかるように少々せっかちである。今回の旅は二人のこの凹凸な性格がよくはまりあったのではないかとおもう(勝手な主観)。以下の旅行記ではこの点も楽しんでいただければ幸いである。ともかくこの友人のことは以降O君と呼称することにする。

 さてO君との待ち合わせ場所に到着してから30分ほど待ってO君と合流することができた。日本からの随分の長旅でありさぞ疲れているだろうと思ったが存外元気そうである。日本での生活がいつも昼夜逆転していたからこういう時はむしろ大して時差ボケの影響が出ないのだろうかと勝手なことを思いながら二人でこの壮大な空港を出る。どうやって空港からハギア・ソフィアや青のモスクなど歴史的建造物の集中するイスタンブル旧市街に向かおうかという話になった。旧市街に行くには電車やバス、タクシーの手段があり、先ほど私が使ったHvaistバスもあるのだろうかと思って調べると果たしてある。そこでO君に「こういうバスがあるみたいだよ〜。値段もそんな高くないし結構早くつくしこれでいいんじゃない?」と提案すると快諾してくれた。朝イスタンブル国際空港に向かうときのような焦りもなく、また友人も一緒であることから先ほどよりは落ち着いてバスに乗ることができた。朝10時頃、冬の柔らかな陽光が車内を照らす中、私たちはかつてのローマ帝国、オスマン帝国の首都にして現在もヨーロッパ最大の街イスタンブルの旧市街に向かう。コンスタンティヌス大帝がここに都を移して以来、イスタンブルは永らく地中海世界の中心地であった。欧州とアジアを繋ぐだけではなく黒海と地中海を繋ぐ交易の要所であり、また防衛するにはこれ以上はない優れた地形を持つ。ここを首都としたコンスタンティヌス帝の慧眼には驚く他ない。だがその戦略上の重要性からペロポネソス戦争でスパルタとアテナイの間でこの街を巡り激しい奪い合いが生じていたこと、3世紀のローマ皇帝、セプティミウス・セウェルスが僭称皇帝に味方したこの街を攻略するのに2年間もかかっていたことなどを考えればもっと前から首都にされていないことの方が不思議なくらいだ…というような話を早口で横のO君にずっと話しかけていたが疲れている中さぞ迷惑だったに違いない。しかし彼はいつも通り穏やかに微笑を浮かべながら聞いてくれていた。全くありがたいことである。そうこうしているうちに旧市街地に着いた。バス停の横にビザンツ帝国のものだろうか、ヘレニズム様式の柱の頭が無造作に転がっている。とりあえずハギア・ソフィアを目指すことにして、あの有名なグランド・バザールの中を足早に通過した。活気が溢れており、商魂たくましい商人たちが道ゆく旅人にあの手この手で声をかけている。おそらく創立された15世紀ごろから変わらない光景なのだろう。私たちにも幾度となく声がかけられたが、私たちの旅はまだまだこれからであり、ここであまり荷物を増やすわけにはいかない。そういうわけで後ろ髪引かれる気持ちもなかったわけではないがほとんど素通りするようにしてグランドバザールを過ぎ去った。グランドバザールの出口からしばらく歩いているといよいよお目当てのものが見えてきた。冬の気持ちの良い晴れ空のもと堂々と聳え立つはビザンティン建築の最高傑作、ハギアソフィアである。ローマ帝国の再興、Renovatio Imperiiを実現することに全力を注いだユスティニアヌス帝によって築かれたこの大聖堂(現在はモスクだが)は地上における神の代理人たる彼の威信をかけて作られた。それから1500年経つ今でもその重厚さは見るものに彼の朽ちることない自信を感じさせる。ユスティニアヌス帝は完成したハギア・ソフィアに入り、ソロモン神殿を作ったソロモン王と自身とを比較し、「ソロモンよ、我は汝にかてり!」と叫んだというがさもありなん、最盛期にあった東ローマ帝国の国力をこれでもかと示しているようである。私たちは写真を何枚か撮り、長蛇の列に並んでいよいよ入場することにする。

ハギア・ソフィア大聖堂

 ハギアソフィアは現在はモスクとされており、代表的なモザイク壁画は白い布で覆われてしまっているが、それでも注意して見れば往時のビザンティン芸術の傑作をあちこちに見ることができる。入ってすぐのところには9世紀末のビザンツ皇帝、賢者の名で知られるレオ6世がイエス・キリストに跪くモザイク画が掲げられている。地上における神の代理人たる皇帝も主の前では一介の忠実な僕にすぎない。そのことを象徴するモザイク壁画である。そのモザイク壁画の下をくぐって私たちはドームの内側に入る。嗚呼、何たる奇跡、何たる栄光!ビザンティン美術とそれに深い敬意を抱いていたオスマン帝国による美術とが見事な調和を成している。古風なシャンデリアの柔和な光は壁面のモザイクとアッラー、ムハンマド、そして正統カリフの名が書かれたメダリオンとを黄金に輝かせしむる。私たちはこの景色にしばし見惚れていた。しかし時は残酷なものであり、イスラーム教の礼拝時間が始まってしまった。私たち含めた観光客は皆モスクから追い出され、出口に向かう。この出口にももう一つ見逃すことのできないモザイクが潜んでいる。ユスティニアヌス帝とコンスタンティヌス帝、そして聖母マリアとイエス・キリストのモザイクである。中央に赤子のイエスを抱いた聖母マリアが、そして彼女の右側に立ち教会を捧げるはハギアソフィアの建立者ユスティニアヌス、左側に立ち街を捧げるは帝都をコンスタンティノープルに移したコンスタンティヌスが配置されている。このモザイクは10世紀に作られたらしいが、10世紀といえば長い間守勢に立たされていたビザンツ帝国が国力を徐々に伸長させ、ユスティニアヌス帝以来の最盛期を再び迎えた時代である。その時代に2人の大帝のモザイク壁画をハギア・ソフィアに作らせるというのは何か繋がりがあったのだろうかと思いながらハギアソフィアの外に出る。その次はハギア・ソフィアから歩いて10分ほどのところにある青のモスクに向かった。さてハギア・ソフィアの近くにはハギア・イリニや小さなハギア・ソフィアと呼ばれるこじんまりとした教会があり、これらはいずれもユスティニアヌス帝に縁のある由緒正しいビザンティン建築である。今回は時間がカツカツだったことと私はすでに一回行ったことがあるので行かなかったがもしイスタンブルに行かれることがあってビザンツ帝国やその芸術に興味があるならいずれも強くお勧めしたい場所である。ともかく、青のモスクもまた随分立派なものであった。私はイスラーム美術については全く無知なのでなんら語ることはできないが、ビザンティン芸術の重厚さと比してその繊細さが印象に残った。色の使い方は洗練されており、どこか軽やかさ、楽しさを感じさせる。昔高校世界史でイスラーム美術の細密画について学んだが、建築にもその几帳面さが表れているかのようである。建築の構造自体はハギア・ソフィアと類似しているが中の色の使い方でこうも印象が変わるのかと驚いた。

青のモスク内装

 その後はトルコアイス屋さんでからかわれたり、この地の代表的な甘味バクラヴァを楽しんだり、地下宮殿で写真を撮ったりしながら市内を散策しているうちに日も暮れてきた。夕焼け時のイスタンブルは大変美しいのだがそろそろ次の目的地に向かわなければなるまい。私たちは地下鉄に揺られること約40分、イスタンブルのバスターミナルEsenler Otogariに向かう。ここはエディルネやイズニクやアンカラなど国内各地、そしてテッサロニキやウィーン、ブカレストなど欧州各国の主要都市にバスを出している。ターミナル内にはずらりと数多くのバスが整列しており、出口から次々とバスが各々の目的地に向かって出発している。私たちの目的地はブルガリアの首都ソフィアである。チケットの予約はネットで事前に済ませてあるため予約したバス会社(Arda-turという)の事務所に向かう。事務所は想像以上に清潔であり50代くらいであろうか?初老で細身の男性が受けつけに座っている。少しくたびれているが風貌はどうしてなかなか格好良い。英語はあまり喋れないようだが、私たちにしたところで人のことをとやかく言えるような英語力ではないため互いに単語単語でコミュニケーションをとる。パスポートを見せて、行き先を確認されて、出発するバス停はどこか説明されて終わりだった。この後は受付でもらったレシートを搭乗時に見せればいいだけらしい。無事にバスに乗れそうでホッとした。ここいらで夕飯を食べようとO君と話し、近くに手頃な店がないか探すことにした。バスターミナルの中心部にはちょっとしたショッピングモールがあり、清潔とは言い難いが定食屋のようなものが入っていた。値段もイスタンブル旧市街と比べればはるかに安い。日本でもそうだがこういう少し汚くて値段も安い店が我々のような学生にとっては一番美味しいものである。期待に胸を膨らませながら店に入り着席する。店員がメニューを持ってきてくれたがここで困った。メニューには英語表記がなく店員も英語は全く喋れないのである。しかしメニューからなんとかPilavの文字を読み取り、これをオーダーする。ピラフならハズレもないだろう。しかしピラフというと店員がトルコ語で何やら質問してくる。ラーメン二郎のトッピングみたいなものを聞かれているのだろうか?そんなことを考えつつ頑張って聞くが何を聞かれているのかさっぱりわからない。らちがあかないので店員がついてこいと身振りで指図し、私はそれについていく。そしてフロントで鶏肉と羊肉を指さされ、ようやく合点がいった。ピラフにつける肉は何にするかと聞かれていたのである。そこで鶏肉を指差し、ようやく鶏肉ピラフを頼むことができた。ついでにバルカン半島の伝統的なスープであるチョルバもつける。O君も全く同じものを頼んだ。しばらく待つとピラフとチョルバがきた。ピラフはチャーハンのようであり塩気も丁度よくきいていてとても美味しい。チョルバは旅の疲れを癒すようなホッとする味である。美味い美味いといいながら二人で平らげる。値段は一人当たり合わせて500円ほどだろうか。そしてしばらくのんびりとしてとりとめない事を雑談していると時間は21:30、そろそろバスの時間である。トイレと会計を済ませてから席をたち近くのスーパーでおやつと水を買い、先のイケメンおじさんに指示されたバス停に向かう。しばらく待つとバスが到着した。二人ともスーツケースは持ってきていないのでトランクに詰め込むものはなく運転手に先程事務所でもらったレシートを見せてさっさとバスに乗り込む。一応指定席なのだが、誰も守っておらず自分たちの席も知らないおじさんに占領されていたので適当に空いていた席に座る。思っていたよりも綺麗で快適である。これならブルガリア・ソフィアまでの9時間の旅もなんとかなるだろう。座ってあくびをしていると先程のイケメンおじさんが乗り込んできて乗客リストと乗客のパスポートを照会して確認をとってきた。座席は適当なくせに妙なところで律儀である。照会し終わるとイケメンおじさんはバスから降り、バスはターミナルを出てイスタンブルの夜景を走り始めた。しばらく走っていると東洋人が珍しいからだろうか、前の座席に座っている女の子がこちらを覗き込んでニコニコと笑ってくる。笑い返すと手に持っていたお菓子を渡してきた。まさか受け取るわけにもいかないので「僕は大丈夫だよ。」といいながら返した。しかし渡してくるのでそれを返すということを何回か繰り返した。お腹が減っていると思われたのだろうか?あいにく自分用のお菓子は先程スーパーで買っているのである。隣のO君を見ると日本からの長距離飛行が響いたのだろう、早くも爆睡している。あまり疲れていないといいのだが。明日行くブルガリアのソフィアとはどんな街だろうか?寒くない事を望もう、着いたらどこを観光しようか?そんなことを考えているうちに私もO君と同じく眠ってしまったようである。

ブルガリア

 バスが徐々に速度を落としていく感覚で目が覚めた。時刻は午前1時、周りを見ると周囲は真っ暗であるが、前方がやけに明るい。目を凝らしてみると何やら大きな建物がありそこが明るいようである。その建物の付近でバスは停車し、運転手が乗客に降りろという。とりあえず貴重品をコートのポケットに突っ込み、言われるがままに降りた。寒い。どうやらここはトルコとブルガリアの国境線上であり、私たちはこれからトルコからの出国手続きとブルガリアへの入国手続きを行うようである。前の建物はトルコの国境検問所であり私たち乗客はぞろぞろと一列になって暗闇の中建物に入る。国境検問所はとても大きかった。しかし内装は白地の壁にムスタファ・ケマル・アタチュルクの肖像画が一枚かけられているだけであり殺風景である。照明も一部しかついておらず薄暗い。O君と大人しく列に並んでいると私たちの番がきた。出国管理官は無表情で私たちのパスポートを受け取るとページをぱらぱらとめくり、しばらく観察するように見た後ガシャンとスタンプを押した。そしてパスポートを手渡しながらあっちに行けというふうに奥の方を顎で指した。これで出国手続きは終わりらしい。あっけないものだ。言われた通り奥の方に進んでしばらく歩くと建物の出口である。出口の前には先程乗っていたバスが待っておりそこにまた乗り込む。乗客全員が乗り込んだ後バスは出発した。5分ほど走ると再びバスは停車し、再度降りるように運転手に促される。先程は寒かったのでリュックからマフラーを取り出し首に巻いた後降りた。今度はブルガリアの国境検問所である。キリル文字でРепублика България、すなわちブルガリア共和国と書かれた看板が検問所の上に堂々と設置されている。私たちは先述したように大学での第二外国語はロシア語を選択していたためこのキリル文字に興奮していた。講義で習った格変化などの文法事項はほとんど忘れてしまったがまだ文字は覚えている。発音がわかるだけでも嬉しいものである。二人でぺちゃくちゃお喋りしながら列に並び自分たちの番が来るのを待つ。ブルガリアの国境検問所はトルコのそれよりは幾分も小さかったため外で待たなければいけなかったのが辛かった。手袋も持ってくればよかったと思いながら待っていると室内に入ることができた。飾り気のない内装はトルコのそれとあまり変わらないが、こじんまりとしていることと照明で明るくなっているため先程のような殺伐さはあまり感じない。私たちの番がきた。入国管理官にパスポートを渡し、「入国目的は何か。」、「何日滞在するのか。」と言った質問になるべく愛想よく返答する。特に問題もなくスタンプを押され入国手続きが終わった。国境検問所を出るとバスが待っているので再び乗り込む。無事にブルガリアに入国することができた。ブルガリア!私が勉強しているビザンツ帝国にとっては不倶戴天の敵であり恐るべき軍事力を誇る大国であった。元々ビザンツ帝国の同盟軍であった騎馬遊牧民ブルガール人がこの地に移住し、先に定住していたスラヴ人と同化したのがブルガリア帝国であるが、騎馬遊牧民由来の強力な騎兵と山林地帯をいかした奇襲攻撃を得意としていた。9世紀のビザンツ皇帝ニケフォロス1世が大軍を率いてブルガリア帝国に攻め込んだ際は、時の皇帝クルム・ハンは峠でこの軍勢を夜襲し散々にこれを打ち破った。ニケフォロス1世はこの戦いで親衛隊もろとも戦死し、伝えるところによれば彼の頭蓋骨はその後金箔を貼られて杯にされてしまったという(プリスカの戦い)。ビザンツ帝国随一の名君バシレイオス2世が即位してもブルガリア帝国は強力なライバルであり続けた。トラヤヌス門の戦いではビザンツ帝国軍を壊滅させ、バシレイオス2世は命からがら戦いから逃げ出す有様であった。このように最盛期のビザンツ帝国にすら辛酸を舐めさせ続けたブルガリア帝国であったが、バシレイオス2世も只者ではない。国内の混乱を収め、軍を掌握した彼はビザンツ帝国領に攻め込んできたブルガリア帝国軍を幾度か破り、とうとう反攻作戦を実施するまでに至る。この作戦のクライマックスであるクレイディオンの戦いではビザンツ帝国がブルガリア帝国の十八番である山岳をいかした奇襲攻撃を実施し、ブルガリア帝国軍を完膚なきまでに破った。伝説によればこの際捕虜にした15,000名の兵は100名ずつのグループに分けられ内99名は両目を、1名は片目をくり抜かれた。そしてこの片目の1名が残りの99名を率いる形にしてブルガリアに送り返されたという。このようにしてぞろぞろと帰ってくる彼の兵にショックを受けた時のブルガリア皇帝サムイルは卒倒して二日後に死んでしまう。この戦いによりバシレイオス2世はブルガロクトノス、すなわちブルガリア人殺しというあだ名を授かった。余談だが私が留学先のイギリスでブルガリア人の友人と話していた時にバシレイオス2世とサムイルの話になったことがある。その時友人が言うには「歴史の授業でサムイルの話になると歴史の先生はああ、サムイルね…と暗い顔をしていかにブルガリア人兵士が酷い目にあったかと言う話を必ずするんだ。」とのことである。いまだにブルガリア人にとってトラウマのようであるが、それはさておき、私たちが今いるブルガリアはこのようにビザンツ帝国を苦しめた強力な大国であった。そう考えるとワクワクする。まだまだ暗いバスの窓から外を見るとなだらかな丘陵が続いている。ブルガリア騎兵はこういうところで訓練をしていたのだろうか…と妄想しながら少し口が寂しいので先程トルコで買った菓子パンを食べた。7 daysとかいう会社が作ったチョコレート入りクロワッサンであるがチョコレートの甘味がちょうど良い。O君も起きて何やらTwitterを見ている。パンを食べ終わった後はO君と雑談したりTwitterやインスタをいじったりしながらバスに揺られること5時間ほど、私たちはブルガリアの首都ソフィアに到着した。時間は朝6時半、降ろされた場所はソフィア中央駅である。率直に言えば見た目はあまり綺麗ではない。おそらく共産主義時代に作ってから手入れはほとんどなされていないのだろう、くすんだ灰色の建物の上に蛍光灯を用いて大きく書かれているSofia Central Stationの文字はStationの最初の2文字が消えており、遠目から見るとSofia Central ationになっていた。駅周辺の風景はめぼしい建物も少なくどこか荒涼とした印象を抱かせる。

ソフィア中央駅周辺の景色

何にせよ早朝の寒風は先程までずっとバスの暖気に当たっていた私たちにとって耐え難く、近くの両替所で多少のユーロをブルガリアの通貨レフに変えてからこの古そうな駅構内に急いで避難する。構内は暖房が効いているのだか効いていないのだか判断しかねるような気温だがそれでも外よりはマシなのでそこにしばらく居座ることにした。というのも早朝すぎて博物館やカフェの類はまだ開いていないのである。駅構内は妙な異臭がする以外は清掃がされており、外見ほどのボロさは感じない。売店も開いており、朝ごはんを何か買うことにした。売店の一つであるパン屋の店内には多くのパンが陳列されている。名前を見れば何かわかるものもあるがわからないものもある。その中から私はホットドッグ、O君はバニツァというブルガリアのパイを買った。店員は年配の女性で英語は喋れなかったため拙いロシア語で注文した。なんとか欲しいものが買えた時の喜びはひとしおである。ホットドッグは無難な味であり、バニツァも少しもらったがチーズが中に練り込まれており焼きたての熱々で美味しかった。その後は構内のカフェでO君はカプチーノ、私はホットココアを頼みくつろぐこととする。1時間半ほどそうしてくつろいだ後日もだいぶ昇り明るくなってきたためソフィアの中心部に向かうこととした。駅から40分ほど歩いただろうか、中心部に近づくにつれ路上の舗装や建物の装飾が洗練された、綺麗なものになっていく。さらに歩くとブルガリア共産党旧本部の建物が見えてきた。威圧感すら感じさせる堂々たるいでたちであり、いまだ冬の澄んでいる空気の中朝日を反射するその姿は厳格とも表現しうるような厳かさを醸し出していた。しかしその中に人情味の如き暖かさを感じ取ることができないのは、建物全体が一切余計な装飾を削ぎ落としているからか、あるいはその存在が社会主義時代の決して明るくはない歴史を象徴しているからだろうか。いずれにせよ旧東側諸国をこよなく愛するO君は大興奮である。残念ながら中に入ることはできなさそうだったので何枚か外から写真をとって、ブルガリア共産党旧本部の脇を通るようにしてさらに中心部にいく。

ブルガリア旧共産党本部


街の中心部には驚くべきことにローマ帝国時代の廃墟が良好な状態で保存されていた。このソフィアは古代にはセルディカと呼ばれ、このあたりの地域一帯を纏める極めて重要な都市であった。その遺跡が今も街の中に保存されているのである!しかも整備された道を通って遺跡の中を散策することもできるようになっておりおそらく古代には人々の家であっただろう廃墟の間を私たちは白い息を吐きながら歩き回った。やはり古代の人々にとってもセルディカの寒さは応えたのだろう、遺跡の多くの建物には床下暖房の痕跡を認めることができた。その構造は韓国の伝統的な床下暖房であるオンドルに近い。床より下で薪をくべてその暖気を床下のスペースに循環させるのである。その暖気を循環させていた床下のスペースは現在も綺麗に残っており、ローマ人が寒さの中ここで快適に過ごしていたであろうことを思わせる。2000年近く前からこのようなものを作ることができたローマ人の先進性に改めて感嘆しながら私たちはこの遺跡を後にした。そして遺跡の近くにあった3世紀に建てられたという聖ゲオルギオス教会、ブルガリア最大の教会アレクサンドル・ネフスキー大聖堂などのいくつかの教会や史跡を巡った後私たちはソフィアという街の由来にもなった聖ソフィア教会を訪れた。現在の建物は6世紀にユスティニアヌス帝によって建てられたものでありそれ自体大変貴重なものであることは疑いようがないが、個人的に強く関心を持ったのはその地下にあるさらに昔の遺跡である。3-4世紀ごろの古い教会やセルディカの城壁、50基以上の墓などが保存されており、入場料を払うことで(教会自体は無料で入れる)、地下の遺跡に入ることができる。コンスタンティヌス大帝は「セルディカは私のローマである。」と言ってこの街をこよなく愛したようだが、その時代の教会や建物がこのような形で残っているのである。墓の一部は内部に美しい紋様が描かれており、その色彩は1700年経った今でも少しも損なわれることはない。教会や建物の方は長いこと地中に埋まっていたこと、そしてセルディカ自体が5世紀に一度フン族の手によってまったくの灰塵に帰してしまったことも相まって現存するのは一部である。しかしその中でも貴族の邸宅の床を飾っていたであろうモザイク画は俗世的なモチーフを生き生きと今に伝えていた。先程訪れたソフィア中心部のローマ帝国の遺跡と合わせると当時のセルディカの街並みやそこに住む人々の生活が目の前に浮かぶようである。

聖ソフィア教会地下の様子


そうして30分ほど地下遺跡を巡った後、私たちは再び地上に戻り、教会の椅子に腰掛けてしばし休んだ後お腹も減ってきたので昼ごはんとすることにした。しかしここで困った。年末には多くのブルガリアの店が休業しているのである。Google mapで評価が高く、そして安そうなブルガリア料理の店を巡ると大抵が休みであり、街中をぐるぐる歩き回っても飯にありつけそうにはない。しばらくGoogle mapで探し続けると少し高そうな店を見つけたので、ここに行ってみよう、もうここがやっていなかったらしょうがないからマックでもKFCでもいくことにしよう、とO君と話してその店に向かった。果たして店は開いていた。ソフィアの大通り近くにありいかにも観光客向けの店であったが、この際仕方がない。店内はブルガリア伝統的な家屋を再現しているのだろうか、木目調の壁にブルガリア伝統の民族衣装がかけられておりなかなか味のある内装である。ここで私はカヴァルマという鍋の煮込み料理を、O君はサルマというロールキャベツのようなものを頼んだ。野菜がふんだんに使われた鍋料理ということもありどこか懐かしさを感じさせる味だった。ふうふうと熱を冷ましながらスプーンで野菜、肉をスープと共に口に運ぶ。肉はスプーンで容易に崩せるほどホロホロであった。スープには仄かに酸味のアクセントがついておりこれがここまでで歩き疲れた体には染み渡る。

カヴァルマ

私たちはここでブルガリア料理を存分に堪能し、店内でしばし雑談をしながら休憩した。その後はこの美しい街中を散策し続け、日も暮れてきたので宿に向かうことにした。ソフィア中心部から路面電車で10分ほどのところに今晩宿泊するホステルはある。ホステルというのは一般的なホテルと違いシャワーやトイレ、キッチンが共有であり、寝る時は一つの大部屋に何台かのベッドが置かれているところで寝るスタイルの宿泊施設である。あまりプライバシーがない代わりに旅行者同士のコミュニケーションがとりやすい他なんと言っても破格の安さを誇る。確か私たちが宿泊した時は一人当たり€10前後であった。清掃も比較的行き届いている。ホステルに到着し、チェックインを済ませた後は荷物をとりあえずロッカーにしまってから、近くのスーパーマーケットに夕食と朝食を買いに行くことにした。ご飯の他に、ビール(とても安い!)やポテチも買い込んでから宿に帰りO君と適当にご飯を食べ飲んでから明日の朝に備えて22:00ごろに寝ることにした。明日は世界遺産のリラ修道院を訪れる予定であり早起きしなければいけない。第一トルコからソフィアが夜行バスであったため節々が痛く、体が横になることを欲しているのである。シャワーを浴びた後 O君とのジャンケンで勝ち取った2段ベッドの下段に横になり毛布を被ると疲れからかいつになく熟睡することができた。

 12月28日朝7時、時計のアラームの音で目が覚めた。まだ外は暗く、同室の誰かが窓を空けたせいでとても寒い。早朝からぶつぶつ悪態をつきながらベッドを出て窓を閉め上段のO君に「起きてる?」と声をかける。「うん」と帰ってきたので一安心だ。寝癖を直したり、顔を洗ったりして各々準備を済ませ、薄明のソフィアの街中に出る。さて、今日私たちが訪れるリラ修道院はソフィアから60kmほど南にあるがその行き方は中々面倒である。O君が調べてくれた情報によれば、まずはソフィアからドゥプニツァという田舎町にバスで向かうこと2時間、そしてドゥプニツァからリラ修道院に1時間ほどシャトルバスに乗って向かう。何が面倒かと言えばドゥプニツァからリラ修道院へのシャトルバスが1日に2本しか出ていないことである。しかもうち一本は朝6時ごろに出るため実質使えるのは1本しかないようなものであり、このバスは絶対に逃すわけにはいかない。しかしソフィアからドゥプニツァに出るバスもそう頻繁に出ているわけではないのでリラ修道院行きのバスが出発する2時間ほど前にはもうドゥプニツァについていなければいけないのである。そのため見た目の距離以上に時間がかかる。私たちはまずドゥプニツァ行きのバスを拾うためにホステルから路面電車を使いバス停に向かった。チケットを窓口で買った後しばらくバス停周辺で時間を潰してからバスに乗りドゥプニツァに行く。ソフィアを出たあたりから山がちな地形の間を縫うようにしてバスは走り続けるが、この地形がブルガリア帝国の得意戦法、奇襲攻撃にとって欠かせないものであったのだろう。そういうことを考えながらバスに乗って2時間ほど経った後ドゥプニツァについた。街の中心部を流れるジェルマン川沿いに建物が並び立っている様子はどことなく箱根を彷彿とさせる。さてリラ修道院に向かうバスは当分でないのでしばらく時間をこの田舎町で潰さなければいけない。時間がゆっくり流れる街という形容表現がありこの街はまさにそれに当てはまるが、こういう時には寧ろ困る。しばらく散策してから道端のキオスクで水とお菓子を買うが、整理されていない財布の中にはユーロ、ポンド、トルコリラ、ブルガリアレフがごちゃ混ぜになっており、レフがどれかなかなか見つけることができなかった。後ろに2、3人並んでいるので一層焦って見つけられないでいると後ろのおばさんが英語で大丈夫?と声をかけてくださった。「ちょっと財布の中でレフが混ざっちゃって…」と答えると大変ありがたいことに「あら大変。ここは払ってあげる。」とおっしゃっていただいたが、まさか見知らぬ他人に払ってもらうわけにはいかない。かと言って待たせるわけにもいかないしどうしよう、と迷っていると間髪のところでO君がトイレから戻ってきたので彼にその場は払ってもらった。おばさんには丁重にお礼を伝え、そして近くのベンチで財布の中身を整理しO君に借りたお金を返してから再び街中をぶらぶらと歩く。街中心部の広場のようなところに出た。なかなかの規模の教会、その前を三輪車に乗った子供が子犬と速さを競うように走り回る姿、それを優しく見守りながら談笑に興じる大人たちと見ているだけで心が温かくなる風景である。先ほどのおばさんのこともあり、こういう田舎の方が人々に率直で質朴な優しさがあっていいな、大都市の観光地に特有の拝金主義的な客引きばかりの世界には疲れてしまう(無論大都市の観光地にも優しい人がいることは否定しないが…)というような話をしながらO君とこの広場でのんびりと寛いだ。そうこうしているうちにリラ修道院行きのバスの時間が迫ってきた。私たちは先程のバス停に戻ると、キリル文字でリラ修道院行きと書いてあるぼろいマイクロバスが停まっていた。私たちは煙草を吸いながらバスの近くで休憩しているおじさんに念の為リラ修道院行きのバスはこれかと聞くとそうだという。どうやらそのおじさんはバスの運転手であり、バスの中に戻りチケットを2枚取るとお金と引き換えに渡してきた(詳しい運賃は失念してしまった…)。そしてチケットを受け取った後、バスに乗り込みしばらく待つと数人のおばあちゃんやらおじいちゃんやらが乗ってきた。彼らはどうやら運転手とは顔馴染みらしく、ぺちゃくちゃと運転手と何やら雑談している。そのうちバスはリラ修道院に向けて出発した。

ドゥプニツァのバス停


しばらく平野を走った後、山に入り、見るからに古いバスはエンジンを唸らせながら山道を頑張って登る。標高が上がるにつれてネットの接続は劣悪になっていき、また暖房が当たらない足元がますます冷えていく。とうとうTwitterすら更新できず、また足の指の感覚がなくなってきたためリュックから靴下を引っ張り出して二枚重ねにしようかしらと思い始めた時に私たちは世界遺産のリラ修道院に到着した。所要時間はドゥプニツァから1時間半ほどである。それにしても呆れるような山の中にあるものである。周りから聞こえてくる音といえば川のせせらぎくらいであり、そして太陽が傾きながら修道院を囲む山の間に没していることがこの場所の寂寞とした印象を一層強める。観光客がちらほらいるのがせめてもの救いである。それでも修道院自体は立派だ。歴代のブルガリア皇帝が威信をかけて寄進をしたためかその装飾の豪華さ、巧みさには目を見張るものがある。山中にあるということ、歴代皇帝から愛されていたということ、そしてこの色彩豊かな装飾がどこか日光東照宮を思わせる。しかし19世紀に一度焼け落ちているらしく(そのため現在残っているものはその後修復されたものである)、その点は金閣寺のようであった。

リラ修道院

修道院の中心部にある教会の内部は写真撮影禁止であったが、教会のドームにあいた窓から差し込む夕陽が内部の壁にびっしりと描かれたフレスコ画を赤く染めておりその厳かさには表現し難いものがあった。ここで俗世との関係を一切断ち、神に仕える生涯を送ればあるいは神との一致を実現できるのかもしれない。そう思わせる神聖さが確かにそこにはある。しばらくして私たちは教会の外に出て周りの建物をフラフラと巡った。そのうち一つの建物から何やらいい匂いがするので吸い寄せられるように二人でそこにいくと、小さなベーカーリーであった。人気メニューは揚げパンのようである。それを注文し、近くのベンチで腰掛けながら二人でその揚げパンを口にする。中学校の給食でたびたび出たあの揚げパンによく似ている味であった。素朴な味が遠い日本での青春を思い出させる。昔日を懐かしみながら揚げパンを楽しんでいると黒猫が近寄ってきた。どうやらパンが欲しいようである。行儀悪いことは承知しながら一欠片投げてあげた。トルコもそうであったがブルガリアでも猫は地元の方々から愛されているようだ。猫はブルガリア語でコトゥカというらしいので「コトゥカ!」と呼びかけるとパンを食べ終わった猫は淡い緑色の目を向けてこちらをじっと見てきた。可愛らしいことこの上ない。私の実家では犬を飼っているためこれまで犬派を自認してきたのだが猫派に浮気してしまいそうである。ともかく私たちは揚げパンを平らげ、猫と少し戯れた後また修道院巡りを続けた。とはいえ帰りのバスが出るのは17:00ごろでありリラ修道院をめぐる時間はわずかに1時間ほどであったからそれほど時間があるわけではない。適当にさっさと見て回ったが幸いさほど大きな修道院ではないので主要な箇所は十分見ることができた。時間になったら先程きたバスと同じバスに戻る。17:00ごろ太陽が山間に没し暗さがますます増していく中バスは修道院を出発し山道を降っていく。ドゥプニツァについたときはすっかり真っ暗であった。さて、私たちがこの田舎町に再びついた時ドゥプニツァから首都ソフィアに戻るバスの最終便はもう出ており、故に私たちは電車を使うことを余儀なくされた。その電車もくるまでしばらく待たなければいけないため近くのスーパーに行って夕飯を買うことにした。このような町にあるにしてはどうしてなかなか巨大で立派なスーパーである。私たちはここで惣菜と水を買い、駅のホームに戻りそこで食べた。O君は何やらコロッケのようなものを食べていたが口に合わなかったようだ。私も少し貰ったがこれまでに味わったことのない香料が用いられており確かに食べるのに少し苦労した。私は塩漬けニシンだったがこれは少し塩辛い以外は無難に美味しかった。そうして食べ終わった後夜空の下電車を持っていると熊のように大きなおじさんが近づいてきてブルガリア語で何やら話しかけてきた。あいにくブルガリア語はさっぱりわからず、おじさんも英語はわからないようなので、気をつけて聞いているとどうやらトイレに行きたいから荷物を見ていてくれないかということである。断る理由もないのでその荷物を見ていることにした。荷物は段ボールの箱であったが穴が空いており穴の隙間からは羽毛のようなものが出ている。しかも時々動くのでどうやら生きているらしい。なんだろうかと思っているとおじさんがトイレから帰ってきた。そしてまた何やら話しかけてきたのでロシア語で箱の中身は何かと聞いた。ロシア語は通じ、中身は鶏だといい段ボールを少し開けて見せてくれた。2羽の雌鳥が寒そうに縮こまりながら段ボールに収まっていた。食べるのかと聞くと大笑いしながら違うといい身振り手振りで卵のためだという。その後は適当な雑談をしながら電車をまった。適当な雑談と言っても私たちのロシア語は全く大したレベルにないため半分以上は何を話されているのかわからなかったがそれでも案外なんとかなるものである。どこからきたのか、学生かといった質問に答えていると電車がきた。おじさんと最後に握手して別れを告げ私たちは電車に乗り込む。電車は思っていたより綺麗であった。席に座りチケットを巡回員に見せたあと、O君と話しながらソフィアまでの2時間半ほどの行程を過ごした。ソフィア中央駅についた後は先日も宿泊したホステルに戻りシャワーを浴びて寝た。

北マケドニア共和国

 12月29日、この日はほぼ移動に費やされた。私たちは朝起きてホステルからチェックアウトした後ソフィアの中央バスターミナルに向かい、北マケドニア共和国首都スコピエ行きのバスに乗った。バスは冬の田園風景を走りながら西南に向けて走る。国境地帯が近づいてきた頃だろうか、私とO君は一橋大学の講義について話していたのだが、いきなり前の座席に座っていたアジア人の2人組の青年が振り返ってきて「お二人は一橋大学出身なのですか?」と聞いてきた。日本人とこのような場所で会うとは思わなかったためびっくりしながら「ええ…そうですが。」と返すと2人組の片方がなんと一橋大学の学生だという。こんなところで同大学の方に会うとは奇遇である。大学の話や互いの共通の知り合いの話で盛り上がりながらスコピエまでの道のりを楽しむ。12:00ごろスコピエについたあと、この二人組と別れて私たちは本日の目的地、オフリド行きのバスのチケットを買いに行く。スコピエのバスターミナルはなんら装飾のない剥き出しのコンクリートで作られており、非常に殺風景な印象を与える。バスターミナルの中は多少清掃がされており、バスチケットを買う窓口のほかに小さなスーパーマーケットや床屋なども入っている。ただしその規模は決して大きくはない。私たちは窓口に行き、中の男性に向かって「オフリド、ドゥヴァー ビレェータ」(オフリド、2枚のチケット)と片言のロシア語で注文した。幸い通じ、現金で支払いを済ませた後チケットを無事に受け取ることができた。オフリド行きのバスが出発するまでは2時間ほどあるためここいらで昼ごはんを食べることとした。Google Mapで見つけたバスターミナル近くのケバブ屋に行くとここでは英語が通じた。店員は青年男性であったが若い人には英語が通じるのだろう。量も味も値段も悪くない。注文したケバブの包装も丁寧になされており、自分が留学しているイギリスの近所のケバブ屋さんもこうであればいいのにと思いながら鶏と牛のケバブを楽しむ。その後わずかの間スコピエ市街に出て街並みを見て回ったがバスターミナル近くは住宅街であり古いアパートが立ち並んでいるくらいで見所はさほどない。中央に出ればなかなかの壮観なのだが今日のところは時間的余裕がさほどあるわけではない。そういうわけで先程のバスターミナルに戻りオフリド行きのバスに乗る。オフリドは北マケドニア南部に位置するオフリド湖沿いの古都であり同国随一のリゾート地でもある。そのため若い大学生のような集団もバスターミナルにちらほら見られた。バスは日本でも見られるような大型バスであり内部もなかなか綺麗である。車内Wi-Fiのパスワードが書かれているにも関わらず接続できなかったことが玉に瑕だがその他は特に不満もない。オフリドまでの所要時間は道路の状況が好調であればおよそ3時間ほどである。しかし私たちが行った時は道が混雑しており4時間ほどかかった。バルカン半島特有の急峻な山や谷を越えてオフリドに到着した時は午後6時、既に日もすっかり没している。今日泊まる予定のホテルはオフリドの中心街にちかく、バス停から2、 3kmほどの距離にあった。知らない国、知らない街を日が没した後に歩くのは少し気が引け、タクシーを使うことも考えたが野郎二人なら大丈夫だろうとO君と話して歩くことにした。中心街に向かう道は所々道路の舗装がなされておらず、また街灯もあまりないため暗く歩きづらい。途中にスーパーがあったので、いくつかのお惣菜とパン、そして安かったのでビールを夕飯として買った。ブルガリアや北マケドニア、そしてこれから行くバルカン諸国ではビールやワインといった酒類が安く美味しくこの点はバルカン旅行の大きな醍醐味の一つであった。そこからまたしばらく歩いてようやく宿に着く。いわゆる中心街の目と鼻の先にあるアパートホテルであり小綺麗な内装と久々にゆっくり浴びれるシャワー(先日のホステルは何人かとシェアしなければいけないため中々ゆっくりできない)に胸を躍らせる。夕飯を食べて少し酔い、いい気持ちになったところでシャワーを浴びて就寝する。明日一日はオフリドの観光に費やされる。この古都では何に出会うことができるだろうか?そのことが楽しみである。
 
 12月30日、朝8時半ほどに起きた。O君はすでに起きているようである。歯磨きなど朝の身支度を早くすませた後私たちはチェックアウトをしようとしたがここで少々トラブルが起きた。朝チェックアウトの時間になったら清掃の人が来るのでその人に宿泊代を払いチェックアウトすることになっていたのだが、それがいつまで経っても来ない。オフリド観光は一日しかなくここでぐずぐず待たされるのも嫌だったので現金だけ置いて出ることにした。宿泊代+€5、それを写真に撮って代金はベッド横に置いたということを宿にSNSで報告した後部屋をでた。天気は気持ちの良い快晴である。ただし日本で二番目に大きな湖である霞ヶ浦の2倍以上の面積を誇るオフリド湖から吹いてくる風はまごうことなき冬の冷たさであり体を芯から冷えさせるようなものであった。オフリド湖沿いの遊歩道をしばらく歩き海と見違うような壮大な光景を楽しんだが寒くてあまり長くはいられない。

オフリド湖

その後私たちは寒さから避難するように旧市街の城壁の内側に入ったが、直接風が当たらないだけでも随分マシである。さて、オフリド旧市街は先に少し触れたように大変歴史豊かな街である。特にその文化的な価値は計り知れない。ビザンツ帝国、ブルガリア帝国、セルビア帝国などこの地を支配した歴代の帝国はこの地に競うように教会を築いた。伝説によれば街中には1年の日数にあやかって365の教会があり、「バルカンのイェルサレム」と呼ばれていたとされる。現在ではこの数は少なくなってしまったようだが、それでも驚くような密度で教会が街中に密集している。その中で私たちが最初に訪れた教会は聖ソフィア教会である。イスタンブルでもソフィアでも同名の教会を訪れたがオフリドのハギア・ソフィアもまたビザンチン様式の荘厳な建物であった。中は11世紀のフレスコ画が残されており当代のキリスト教的世界観を今に伝えている。ただし石造の境界の中は恐ろしく寒く、日が出てきた外よりも寒かった。そのためあまり長居することはできずそうそうに外に出た。その後街の中の丘に中世のものと見られる要塞があったので二人でそこまで登ることにした。どうして中々急な坂であるが冬でも青々とした湖と街の橙色の屋根とが穏やかな陽光を反射して煌めいている。絶景である。しばし写真を撮りながら要塞に向けてどんどん登っていく。街中の看板によると要塞は「サムイルの要塞」というらしい。あの目をくり抜かれた自分の兵士を見て卒倒したというブルガリア皇帝サムイルにゆかりがあるのだろう。要塞の道すがら、ローマ時代のアンフィテアトル(円形劇場)やブルガリア帝国にキリスト教を伝えた聖クリメントの墓があるパンテレイモン教会、そしてそれに付随するビザンツ帝国の遺跡など多くの史跡がありそれらで一息つくことができた。さていよいよサムイルの城塞に到着した。ここはオフリド市内の最も高い丘の上に建ておられており、その城壁からはこの風光明媚な古都を一望することができる。要塞はサムイルの要塞という名前の通り皇帝サムイルによって建てられたようだが、その後ブルガリア帝国を滅ぼしたブルガリア人殺しことバシレイオス2世によって破壊されたようである。しかしその軍事的な重要性からビザンツ帝国の中興の祖アレクシオス1世コムネノスによって再建されたとのことでありつまり現在残っている要塞の大部分はアレクシオス1世コムネノス代のものなのだろう。質実剛健な様相の要塞からの風景は案の定絶景であった。湖からの風が心地よく私たちに吹き付けてきて登りで暑くなった体には涼しい。要塞の周りを一周し眺望を存分に楽しんだ後、中の廃墟を見て回ってから私たちは丘を降りることとした。

サムイルの要塞より

中世ごろの街並みをそのまま残しているような通りを降ると私たちは少し大きな広場とその中央に鎮座する教会にであった。教会はさほど大きくないが外観は典型的なビザンチン建築であり興味が湧いたので見てみることにした。入場料を払うために受付らしきおじさんのところに行くと私たちの顔を見てどこから来たかと聞いてきた。日本からというと笑顔になり入場料は無料だという。金欠大学生の私たちにはとてもありがたかった。そして私がビザンツ帝国に興味があって大学でもそれを学んでいるというとおじさんは次のように英語でいった。「それならば全く正しいところに来た。この聖母ペリブレプトス教会はビザンツ帝国の最後の輝き、パレオロゴス朝ルネサンスの芸術を現在地球上で最もよく保存している教会である。ここの中のフレスコ画は13世紀に描かれている一度も修復作業がなされず当時のままの状況で残っている。日本の金沢大学も研究のため遠路はるばるここまで来たのだよ。」と。金沢大学なら確かにビザンチン芸術を研究している方が何人かおられたように思うのでここまでくることもあるだろう。しかしまさか知らずに入った教会がパレオロゴス朝の芸術を極めて良好の保存状態で残していたとは!パレオロゴス朝とはビザンツ帝国最後の王朝である。第4回十字軍によって首都コンスタンティノープルを陥落させられ、1204年に一度滅んだビザンツ帝国であるが1261年に「最も狡猾なギリシャ人」と呼ばれたミカエル8世パレオロゴスの元再び首都を奪還し、ビザンツ帝国は復活することに成功する。しかし往時の繁栄はすでに失われ、度重なる帝位をめぐる内乱と新興のオスマントルコによってパレオロゴス朝は次々と領土を失った。しかしそれでも巧みな外交によって1453年に滅びるまでその命脈は保ち続けたのであるが、一方で文化面では非常な成功を収めた。教会美術の再興、幅広い著作活動、古典文学の研究などが皇帝の支援のもとで幅広く行われ一説には西欧のルネサンスにも多大な影響を与えたという。そのビザンツ帝国最後の煌めきがここで見られるとは思いもしなかった。興奮しながら教会の中に入ると早速巧みに皇帝や聖職者、軍人を描いたフレスコ画によって出迎えられた。これまで見てきたビザンツ帝国のフレスコ画に比べると生き生きとした筆遣いによってより写実的であるが、他方その厳かさは従来のものから少しも損なわれることはない。壁や天井を見上げながら決して大きくはない教会内部を見て回っていると見知った絵にであった。それは柱に描かれた軍人の絵である。私はビザンツ帝国の中でも特にその軍事・外交に興味関心があるのだが、この軍人の絵は自分の勉強をする上で何度も見てきたものである。甲冑に身を包み鋭い顔でこちらを見据えながらパラメリオン(ビザンツ帝国の剣)を握るは聖メルクリウスという聖人である。

聖メルクリウス。教会内部は写真撮影禁止であったためこの写真はウィキペディアより。

彼は3世紀ごろのローマ軍人でありその軍事面での才覚から時の皇帝デキウスによって深く愛されたが、キリスト教の信仰を捨てることなく頑なに保持したため処刑され、殉教者となった。活躍した時代は3世紀でも彼が身につけている装備はこれが描かれた13世紀のものであり、それがこの絵の重要性を一層大きなものとしている。ビザンツ帝国の軍事に関心があるものは誰もが見たことがあるような絵だがまさかここで会えるとは思わず深く感動した。そうして見ていると先程の受付のおじさんが近づいてきて何か質問はないかという。いくつか教会の作りや装飾について質問したがそのどれも丁寧に答えていただいた。そうして見終わった後私たちはこの親切なおじさんに深く礼を言って教会をでた。笑顔で出口まで見送っていただいた後、もう時刻も昼頃でありお腹も減ってきたので市街に戻ることにする。市街に戻った後何軒か店を見て回ったがいずれもリーズナブルな値段であった。そこで二人で話した普段なら絶対入らないような少し高級志向の店に入ってみることにした。湖を一望できるテラスがついたレストランに決めて入った後料理を注文してしばし寛ぐ。食前酒というわけではないが興味があったのでラキというバルカン半島に特有の酒も頼んでみることにした。酒はワイングラスに入ってきたが、このラキという酒、アルコール度数は50%ほどである。少し口に含むと喉奥が焼けるような感覚がした。あまりに度数が高い酒は一気に飲み干すに限る。喉を焼く灼熱感は無視してグラスの中身を一気に胃のなかに注ぎ込んだ。口から食道へ、食道から胃とどんどん焼けるような熱さが伝わっていき、体の奥が燃えるような感じがする。なるほど、寒さで体が冷えているのならばこういうのも悪くはないかもしれない。さてそうして酒の力もあって少し饒舌になっている私たちの元に料理が届いた。私はよく覚えていないが何かの肉料理、O君はパスタと魚料理を頼んでいた。味付けはやはり高い店を選んだだけあって相応に美味しかった。O君は酒には少し苦労していたが料理の方はペロリと平らげており味もお気に召したようだ。そうしてしばしオフリド観光で費やした体力を回復した後私たちは昨晩歩いた道を戻ってオフリドのバス停に戻り、スコピエ行きのバスに乗り込んだ。スコピエへはお腹もいっぱいだったことも相まって爆睡していたようで、気づいたらまたあのボロいバス停である。時刻は18:00を回った頃合いだろうか、私たちは本日泊まる宿に向けて歩いて出発した。今日は昨日と同じようにアパートメント形式の宿に泊まることとなっており、宿の予約から連絡まで全てO君がやってくれていたので彼の後ろにくっついていくだけで楽であった。しばらく街灯が所々切れかかって暗い街中を歩いていると中央部に出たようである。大きな川沿いに銅像や立派な建造物が立ち並んでいる。中でも特に目を引く綺麗にライトアップされた建物があり、古代ギリシャの建築様式を模倣して建てられたそれは圧巻の大きさを誇る。なんだろうか、国会議事堂とかかしらとO君と話しながらその脇を通った(後日それは考古学博物館であるとわかった)。そうこうしている内にアレクサンドロス大王広場に到着した。ここはスコピエ市内で最も著名な場所であり、北マケドニアの歴史を語る上で欠かせないアレクサンドロス大王の騎馬像が堂々と円柱上に設置されていた。そしてその円柱には彼の兵士が付き従っていたが歴史考証はよくなされているようでありその装備は当時のものを極めて正確に模倣している。その像の元では数多くの出店が出ており、クリスマスと新年の間ということもあり人々はお祭り気分である。その間を縫うようにして通りながら私たちは宿に向かう。今日の宿はこのアレクサンドロス大王広場のすぐ近くにあり便利な立地である。ただしその外見は今にも崩れそうなほどボロかった。アスベストとか大丈夫だろうかと思い中に入ると、中は幾分かマシである。階段を登って自分たちの部屋についた。事前の連絡によると鍵は玄関マットの下にあるようであり、こんな鍵の渡し方もあるのかと少し感心しながらマットを捲って鍵を回収する。そして部屋に入ったが、部屋はアパートの建物の外見からは想像もつかないほど立派であった。綺麗なことはもちろん、広い。思うに元は4人から6人ほどの家族向けだったのだろう。2人で使うには少々持て余すがそれでもO君とはしゃぎなら部屋を見て回った。水回りだけは少し古いがそのほかは特に問題もない。アパートに満足しながら私とO君は夕飯を買いに行き、その後夕飯の惣菜と酒を楽しみながらテレビをつけて北マケドニアの刑事ドラマのようなものをぼんやりと見ていた。そして私はO君より一足先にシャワーを浴びて寝ることとした。旅路は長く自分の体力配分には気をつけていないといけない。休めるときに休まなければ。

12月31日、大晦日である。まさか大晦日を北マケドニアで過ごす日が来るとは思わなかった。今日はスコピエ市内を観光する予定である。北マケドニアの首都はどんなものだろうか。そんなことを考えながら身支度をして宿を出る。宿を出る直前に2023年度の総集編というような投稿をインスタグラムでしたら友人からいつもよりいいねがきて少し嬉しかった。みんな大晦日だから家にいて暇なのだろう。さて、宿を出た後私たちはアレクサンドロス大王広場を通って街中をしばらくほっつき歩いていた。スコピエ市内には実に多くの彫像が飾られている。先に述べたアレクサンドロス大王はもちろん、その父フィリップやビザンツ帝国の最盛期を築いたユステニィアヌス帝、そしてスラヴ人に文字を伝えたキュリロス・メトディオス兄弟など錚々たる面子である。

アレクサンドロス大王像

昨晩見た異常に立派な考古学博物館も含めてこの国はどうも歴史に対する熱意に並々ならぬものがある。いやむしろ少し過剰とも言えるくらいである。なぜだろうか。おそらく北マケドニア共和国の複雑な政治状況にその理由があるのだろう。「マケドニア」という地名は一般にアレクサンドロス大王を輩出した地として知られているだろう。元来ここにはギリシャ系の住民が住んでおり、ギリシャ語が話されていた。しかし6世紀ごろからスラヴ人がこの土地に大挙して侵入してきた。侵入自体はこれまでもフン族やアヴァール人などの騎馬遊牧民がしてきたため珍しいことではないがスラヴ人が他と違ったのはこの土地に永住したことであった。そこで彼らは元々住んでいた住民をあるいは追払い、あるいは同化させながらこの地に根を張り、19世紀の民族主義の時代になって「マケドニア人」というアイデンティティを確立した。しかし元来「マケドニア人」といえば古代マケドニア王国を築いたギリシャ系住民のことをさす。ここでこの名称をめぐり北マケドニア共和国は南のギリシャと対立することになった。しかも北マケドニア共和国の受難はこれだけではない。その東方に位置するブルガリアは歴史的にこの土地と関係が深くブルガリア帝国の首都も幾度かこの地に置かれた。そのためブルガリアはこの地を自国の一部と見做していた。そのためブルガリアは北マケドニアの文化的な独自性を認めずその言語も人間もあくまでブルガリアと同一であるとしともすれば北マケドニア共和国の自立性を脅かしかねない存在であった(とはいえブルガリアは北マケドニア共和国がユーゴスラヴィアから分離したときに早々に外交関係を樹立するなどその関係性は簡単に語ることはできない)。この北と東との複雑な関係が現在の北マケドニア共和国がかように歴史に対して熱意を見せることにつながっているのではないか、その独自性を訪問する人々にアピールするために… そう考えると私のような歴史オタクにとってはテーマパークのような街中がふと残酷なものに感じられた。

スコピエの考古学博物館

ともかくしばらくこの彫像と博物館で溢れる街中の観光をした後私たちはもはや馴染みとなったスコピエの汚いバス停に向かい次の目的地へのバスチケットを買った。大晦日であったためバス会社が運行しているかだけが不安だったのだがどうやら杞憂に終わったようだ。O君も私も慣れた手つきでバスに乗り込み、出発するのをまつ。今日の目的地は20世紀末に起きた激しい内戦で知られるコソボの首都プリシュティナである。年越しはコソボかあ、今頃日本の友人は家で紅白でも見ているのだろうなあと思っているとバスは灰色のターミナルを出発して目的地に向けて走り始めた。


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