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『空青』を噛み締める

「空の青さを知る人よ」は最初に視たときに心の中に澄み渡る爽快感が広がった。
でも、その素晴らしさを言葉にすることは非常にありきたりなことのように思えた。『空青』を「本当の恋と愛を見つけ、失恋する話」と書くとそれはそれで含蓄のある、1つのまとめ方になるのだが、それでは自分の感じたこの作品の素晴らしさの半分であると思った。
何故なのだろう。
何回か見返し、監督のコメントを聞き、この作品の感じ方が人それぞれであるべきだということを感じた。「選択」の話とも確かに切り出せる。
そうしたものを踏まえて、何かこの作品の感想を書こうと思ったが、今も迷いのようなものがある。
結局、『空青』に対して最初に感じた素晴らしさと違うものを書いてしまっているのではないか、と何か上書きしていて別物の、醜い色になっているのではないかとずっと思っている。
しかし、今ここで書こうと思ったのは、秩父まで足を運んで、このタイミングでしか書くことが出来ないと思うからだ。
『空青』のこれまでの超平和バスターズ作品との違いは大人(といっても30歳ぐらい)の恋を描くところだろう。その年での感情の動きには歴史がある。10代の若さや刹那性ではなく、この先を見据えた考え方やこれまでの経歴を踏まえた感情の動きである。その差異を特徴的に描いたのがしんのと慎之介の対比、対話であるが、私はそれと同じように少しずつ出てくる秩父の風景や人々というのがそこに大きく関わっているのではないか、と考える。
秩父は山奥である。交通はあるし、町は普通の田舎より栄えている。でも「壁に囲まれた盆地」である。そんな土地でしんのや、あおいは都会に出たいと望んでいる。そこには若さが光るが、その一方で町内の寄合で場を仕切る道彦やあかねのシーンが出てくると、そこに生きる活力を感じる。若さの行く末として描かれた慎之介は暗い部屋でかつてのギターケースを開けている。孤独や閉塞感を感じる。
別に田舎から出ることを否定した作品ではない。実際、この作品の最後のシーンから自由に想像するのであればあおいは大学かどこかに進学した(秩父にたぶん大学はない…?)し、結婚したあかねとしんのは都会に出ていくようなことを想像しまった。ハッピーエンドとしての出ていくことは全く否定していない。であればこの対比はどこから来ているのか。
それは超平和バスターズが秩父という土地でリアルな人々との関わりを通して、人々の温かみを感じたからではないかと思う。『あの花』から10年近く、秩父三部作という区切りの中で繋がりが強まったからこそ、秩父の良さが溢れていった作品ではないか。だからこの作品は田舎ではあるものの新しい活力(現実はアニメツーリズムではあるが)を音楽に見出だして、これからも発展を続けていこうとする秩父、という描きかたをする。秩父を回って(大変疲れたが)、このコンパクトで少し閉塞感のある、でもちょっと楽しげな土地柄に望郷の感を抱かずにいられなかった。
望郷、という言葉がこの作品のピースであると気づいたが、そもそも私に故郷と言えるものはあるだろうか。いやたぶんない。都会に住んでいるとそこが故郷という感じがしない。しかし、作品を見通してまるで秩父が1つの故郷なのではないか、そしてそんな故郷の雰囲気に浸かりたいと思っている自分がいた。
見れば見るほど故郷になっていく。ただいま、って言える(言いたい)場所があるっていうのは素敵だと思う。

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