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報道のあり方の変革

 グーテンベルクの活版印刷が発明され、自国語に翻訳された聖書が普及するに及んで、それまで聖職者が独占していた聖書の内容が一般人のものになった。その結果、キリスト教は大きな試練にさらされることになる。
 「量的な変革は質的な変革に転化する。」と言う人がいたが、この論でいうと聖書情報を持つ者が量的に増加(しかも爆発的増加)することにより、キリスト教自体が質的に変革されることになったわけである。

 同様に、SNSの普及により、それまで報道機関が独占していたニュースソースが、しかも動画などによる生のニュースソースが報道機関を経由せずに拡散されるようになった。
 今までは、①事件・事故の発生、②報道機関による取材、③取材情報のふるいわけと解説の付加、④③で残った取材内容を公開、という手順を経た事件・事故情報が私達のもとに届けられた。
 しかし、SNSの発達により、上記①からいきなり④の情報拡散ができる方法が普及したため、今は「既存の報道システム対SNS」という図式になっている。これは、カトリック対プロテスタントの対立構図と同じだ。
 宗教戦争の背景には、基本的に信仰があったとは思うが、既得権益を失いたくないという物欲と、今まで富を収奪され抑圧されてきたという恨みもあったと推測される。

 現代の「既存報道対SNS」という対立における既存報道側は既得権益者であり、「我々は国民から報道の使命の付託を受けている。」などと奇妙きてれつなことを言い出すなどズレていることが多い。これは、日本学術会議の構成員に対する承認拒否を「学問の自由に対する干渉だ。」と反発するのと同じ種類の滑稽さを伴っている。民主主義制度の健全な維持のためには報道機関の存在が必須だと思うが、その報道機関は既存の新聞雑誌、テレビ、ラジオに限定されるものではない。

 一方SNSは、のの内容が玉石混交であり、胡散臭いものがたくさんある。
 そのため、情報を取得しようとする者には情報の信憑性を見分ける眼力が必要になる。今までのように無批判に情報を受けてはいられなくなっている。

 今後、既存報道とSNSは、併存しつづけるのかどちらかが滅びるのか興味あるところである。既存報道機関の記者とかデスクとかって、かつての教会の聖職者と似ていて、それほど知識の蓄積があるわけではないようだし、向上心もありそうに見えない。あるのは、「あの政治家と親しい。」的などうでもいいことだったりする。
 一方SNSの方は、収益性向上の努力が必要になる。利益がないのに犠牲的精神で情報発信する者が多数いるとは思われないからである。

 既得権益者が滅んでいくのは、歴史的潮流なんだと思うのだが、今回はどうなるのだろう。

以上

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