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広岡達朗 背番号2

 1960年代のジャイアンツのショートといえば広岡達朗さんで、その背番号は2だったそうです。
 王貞治さんが1、長嶋茂雄さんが3でしたから、大スター選手に挟まれた背番号だったわけです。広岡さんも名ショートと言われていましたから、スター選手だったんですが、大スターが両脇にいたのではやりにくいこともあったでしょう。

 広岡さんには、いろいろな逸話があります。だいたいが後年監督として成功した功績を貶しめる目的で発言されることが多かったと思います。
 まず、広岡さんは川上監督時代にトレードに出されることになったとき、オーナーに直談判して撤回させたと言われています。当時、広岡さんは川上監督との確執が噂されており、そのことからトレード話が持ち上がったといいます。そこで、広岡さんは、オーナーに「トレードに出すなら引退させてほしい。」と申し出たそうです。結果、オーナーに慰留され、トレードを進めていた川上さんは顔を潰された形になりました。
 監督時代の広岡さんは、選手の反抗を許しませんでしたので、「自分は若い頃監督に反抗しておいて、自分が監督になったら反抗を許さないというのは矛盾している。」と批判されました。
 しかし、それは別に批判されることではないと思います。選手の時代には選手の考えで行動したのであって、監督になったら監督としての考えで管理するというのは普通のことではないかと思います。

 次に、広岡さんが西武ライオンズの監督時代に、選手の食事改善を行った際に、「野菜ばかり食べさせて、スポーツ選手が肉を食べずにやっていけるか。」と批判されました。当時の日本ハムファイターズ監督の大沢啓二さんからは「肉を食べないライオンさん」と言われたと報道されたりしました。
 しかし、選手の食事改善の内容は「バランスのいい食事をすれば、怪我が減るし体調維持につながる。」というもので、別に偏食を勧めているわけではありませんでした。大沢監督の発言は、パ・リーグの優勝争いを盛り上げるためのものだと思いますが、メディアの報道内容は「当時からマスゴミだったのだな。」と感じます。

 先日、デーブ大久保さんが、高校生でライオンズのキャンプに参加したときの思いで話をしていました。当時門限が12時だったので、田尾選手に連れられて外出し12時前に帰ったところ、マネージャーに高校生がこんなに遅くまで外出していてはだめだ。と責められたそうです。ところが広岡監督は「12時までに帰ってきたんならいいじゃないか。」とルール通りの判断をしたそうです。
 それは当然そうで、もし高校生というか未成年の門限をもっと早い時刻にすべきならそのように伝えるべきです。

 メディアというかマスコミは、「プロ野球選手はプロなんだから自覚もあるはず。自由にさせていい。」という信仰があるようです。しかし、プロ野球選手で30歳を超えて引退した選手の8割が自己破産しているといいますから、選手を完全放任するのは、選手にも球団にもリスクがありすぎるように思います。

 一方広岡さんは、野球に本気でない人には素っ気ない態度を隠さない傾向があるので、担当記者などからは好まれていないのでしょう。
 この溝は埋まらないようです。


#背番号のストーリー #広岡達朗

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