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父と柴犬

その一

父と柴犬は、今の私が望んでも会えない、失ってしまった大事な家族だ。
犬は私が結婚した後に老衰で亡くなり、父は新潟の震災の年に亡くなった。
彼らを思い出すことしか、今の私には出来ない。

だけど彼らは私にとっては今も自慢のろくでなし達なので、私は彼らを語りたいと思う。

まず、柴犬が我が家に来るまで、の我が家の飼い犬歴だ。
父を語るには、柴犬の前の子達をどうして迎えたのかを端折るわけにはいかない。
 
また、柴犬の前に、やはり大事な家族だった二匹の犬がいるのだから。

最初の犬は、私が幼稚園の年長ぐらいの時に我が家に来た。
犬を迎えた理由は、母が流産してしまったから、だった。
すでに三人姉妹の私達に加わる予定だった亡くなった子は、男の子だったそうだ。

母は落ち込み、父はそんな母の為に何かをしたいと思ったのだろう。
奴は出張先にて、二ヶ月にもなっていないオスの仔犬、パグを買ったのだ。
 パグを父が選んだその理由は、変な顔だったから。

我が家は新潟。
奴の出張先は東京だ。
当時は新幹線どころか関越自動車道も開通していない。
父は「変な犬」を見たら母が笑うだろう、たったそれだけの目的で、車で十一時間掛かる道のりをパグの仔犬と一緒に越えたのである。

結果、母は笑った。
母はパグをこよなく愛し、母に甘やかされるパグは母を実母と認識して母べったりの愛犬となった。ただし、パグは私と妹を排除するべき邪魔者と認識したらしく、私と妹には愛犬と言えない生物となってくれたが。

ちなみに、姉はパグに排除されなかった。
長女の彼女に逆らったら自分の身が危い、そこは弟としての本能で分かったのだろう。

そしてそのパグは、三年後に当時予防注射も無いパルボで命を落とす。

パグの死に私達家族は落ち込み、父は再び動いた。
新しい犬を連れて来よう!と

しかし、東京のペットショップと違い、新潟のペットショップにはパグはいなかった。
そこで父は、私と妹に一番かわいいと思う仔犬を選ばせたのである。

「オス以外は選ぶなよ。我が家はオスだけだ」

我が家の新しい家族に、シーズのオスの仔犬が選ばれた。
この子は大変甘やかされた。
躾もせずに甘やかしまくったからか、リードを付けたら不機嫌になって動かなくなるぐらいに、彼は自分を人間と見做していた。

そのため、リードが無い状態で自宅の敷地外に飛び出して、車に轢かれて死んでしまった。

私達は落ち込み、今度の父は犬を買いに行く代わりに、家長としての宣言を上げた。

「我が家は犬を飼ってはいけない家だ。犬を不幸にしてしまう。二度と犬は飼わない」

全員が父の言葉に頷いた。
大事な家族を失うのは辛すぎる。

「おい、蔵前!!犬きたぞ!犬!お前が面倒見ろ!!」

中学三年になったばかりの春、私は父に柴犬の仔犬を押しつけられていた。
柴犬の仔犬は顔が黒く丸っこく、狸の子供みたいだった。
それでもって、やっぱりオス。

「父?我が家は犬を二度と飼わないんじゃなかったっけ?」

父は物凄い笑顔を私に返して、言った。

「人助け、だよ」

「人助け?」

「俺の友人がさ、チャンピオン犬の子が欲しくなったらしくてね、チャンピオン犬の飼い主の所にお百度参りして二年待ったんだって。そしたらさ、お前の頼みで子供を産ませたんだから、二頭受け取れ、とされたんだって。二匹は飼えない、困ったって。俺はそれを聞いてね、友人である君の為なら俺がこいつを引き受けるよって。人助けだろ?」

「人助けだけど格安で?」

「格安で!!柴犬って熊と戦う犬らしいよ!!」

「闘犬?」

「ばか。山に行くだろ?そこで熊に会うだろ?するとな、柴犬は飼い主の為に熊に襲い掛かるんだそうだ。おい飼い主!!俺が熊を抑えている間に逃げろ!!ってな。凄いだろ?」

父は友人が柴犬について語るうちに、自分こそ柴犬が欲しくなったらしい。
父は山菜採りにも行かないし、新潟の田舎だろうが我が家が建つ場所は、熊なんか出ようもない平野部だ。

「そっか。それでどうして私が育てるのかな?」

「俺は仕事。母も忙しい。姉も妹も学校で部活やなんかで忙しい。これから暇になるのは、お前ひとり、だろ?お前は動物好きだろ?良かったな、自分の犬だ」

私がこれから暇になるのは、受験勉強を前にした中学三年生だからだよ?
全く、父っていつもこんな奴だ。
だけど私は父に与えられたその柴犬の仔犬を、とてもありがたい気持ちで抱きしめていた。

 今日からこの子は私の犬だ。

その二

我が家に柴犬が来た。
柴犬だ、洋犬じゃない。
柴犬を強調するのは、柴犬を飼うにあたり、我が家の柴犬の親を飼っている人に柴犬に関して色々教えてもらったからだ。

彼はチャンピオン犬を何匹も世に送り出して来た、柴犬のスペシャリストだ。

そんなすごい人が我が家を訪ねたのは、純粋に彼が愛犬の子供の行く末を心配したからなだけである。

「柴犬はね、女の子が飼う犬じゃ無いんだ。抑えが効かないからと言って去勢するのは止めて欲しい。無理だったら引き取るから」

柴犬は去勢すると性格が変わるそうだ。
柴犬の本性を愛せないならば飼わないで欲しいと、彼は言った。
親犬の飼い主がここまで柴犬の性質に拘るのは、柴犬は気性の粗さこそが柴犬の魅力なのだと言う事だ。それは柴犬は父が言っていたように、人間の為に熊に戦いを挑むものであらねばいけないからだそうだ。
そのためには飼い主の制止を一切聞かない仕様となっている、そうだ。

  凶器かよ?

「柴犬の品評会はね、最初に会場に全部入れて、他の犬に脅えた仕草を見せた犬から弾いて行くんだよ。血統や見た目を吟味するのはその後だ」

「普通の品評会と違うんですね」

「柴犬は気性が全てだから。だからね、芸も教えないで欲しい。柴犬は自分で考えて行動できるようにしておかなきゃいけない。だから、人の言う事も聞かないけれど、そこに苛立ったり悲しんだりしないで欲しい」

「言う事聞かないんですか?」

そこはびっくりだった。
犬は人間の指示にどれだけ忠実に従えるか、だったのでは?

「止めろで動きを止めたそこで熊に殺される。こいつらの敏捷性を失ってしまう」

「――本気で熊を殺る犬を育てていらっしゃるのですね」

「それが柴犬です。無理なら引き取ります」

「面白いですね。色々と今後もアドバイスください。品評会に出す犬を育てるなんて、凄く面白いと思います」

彼は犬の歯の手入れの方法など、色々と教えてくれた。
ただし、彼と話をしたのはそれ一回きりだ。
母がその後、勝手にその人に断りの電話を入れていたのだ。

「娘しかいない家に来ないでくれ、迷惑だって言ったの。もう来ないわよ。品評会?あなたも女の子なんだから、そんな男しか参加していない場所に興味持つのは止めなさい」

本当に残念だ。
私は母でない人に自分が育てられていたら、と今でも時々考える。
社会的に男尊女卑に遭っていると女は言うが、実際は女が他の女の可能性を潰し合った結果なんじゃないだろうか。
献血のイメージキャラクターが女性蔑視の存在だって騒いだけど、女の子が馬になっているゲームに文句付けないのは何故だろう、とか、女は家畜と記されている聖書の宗教に噛みつかないのは何故だろう、とも。

  いかんいかん、ここは父と柴犬の思い出を書く場所だ。

とにかく、私はチャンピオン犬を育てた人との邂逅を大事にして、彼がその時に教えてくれた事を大体は守って犬育てをした。
歯の白さを保つためのケアなど、犬の健康を保つための色々だ。

 芸を教え込むな、は守れなかった。
 そこは、犬を飼った人は絶対に守れないと思う。
 スキンシップしたいじゃ無いか。

 お手って、最初に犬に言う言葉だよ!!

結果、私の柴犬君は、お手、お座り、伏せ、を生後半年で全部覚えた。
伏せと言って伏せする犬は初めてだった。
近所で出来る飼い犬いないよ。
お風呂上がりに、ブルブル、といえば、体をブルブルしてくれる。

  なんて賢いお利口さんなの!!

私は愛犬に対して物凄い感動を覚えたが、すぐに柴犬が芸を教えたらいけない犬だと身をもって知ることになった。
生後半年を過ぎて歯が生え変わる時期になると、お座りと言えば後ろ向きに座り、私が彼の背中を撫でないと凄むようになったのである。

お手と私が手を出して言えば、お前何を言ってんのか分かってんの?という顔で私を睨むのだ。

でも、がっかりした顔をして手を下ろすと、彼は私に手を差し出してくれた。私はそこで毎回、彼に愛されているなあ、なんて思いながら彼の手を掴んでいた。

  結局私一番なんだよね、この子は、と。

「犬に芸を仕込まれてどうする。お父さんがっかりだよ」

父に言われて気が付いた。
そういやそうだ。
流れ的に私が奴に芸をしている格好じゃ無いか。

  本当に柴犬ってろくでもない。

本当に飼い主を守ってくれる犬なのか?
私が高校二年生となったとある日、私は柴犬の本質を見る事となる。

その三


わがまま放題に育った犬は、賢いからか自分の思い通りにできる方法を手に入れていた。

例えば変な鳴き方。

猫みたいな変な鳴き方をすると、煩いと叱られるどころか家人は笑い出し、散歩に連れて行ってもらえると奴は学習した。
そこで奴は散歩に行きたくなると、その変な鳴き声をあげるようになったのである。

ムカつくのが、奴がその鳴き方をする時は、私が在宅している時、という条件付であるという点だ。

  賢いにもほどがある。

とある水曜日の夜遅く、奴は何を思い立ったか、散歩に行きたいと騒ぎだした。

「うにゅあああああんふにょおおおおおおおおん」

「蔵前、おい飼い主。近所迷惑どころか恥ずかしい。やることないんだったら、お前がなんとかしろ」

「お父さん。夜も遅いし、もとはお父さんの犬でしょう?お父さんが行って」

「俺はこれから鬼平がある」

「あたしだってそれ目当てで居間にいる」

「行け。お前の為にビデオにちゃんと録画しといてやるから」

「いや、それは毎週やってんじゃん。普通に鬼平コンプしてるだけじゃん」

「だから、その大事なビデオを再生してもいいから、行け」

  最低な父親である。

私はそんな男が連れ込んだろくでもない犬に綱をかけ、高二の女の子には危険極まる夜の外に飛び出した。

本当に柴犬は困る。
家の前でプラプラしていれば安全なのに、柴犬は自分で散歩ルートを決めるのだ。だから、暗い夜道なのに、どんどんと家から遠ざかるしか無かった。
台風なのに散歩している人がよくテレビに映るが、その人達の飼い犬が大体にして柴犬なのは、柴犬の遺伝子に、何があっても散歩する、が刻まれているからだと思う。

「家まで送りますよ」

  ほら、危険が来た!!

私は自分の真横に横付けされたセダンを見て、大きく溜息を吐いた。
こんな時間は、どっかのまる走が箱車流している時間だ。

  乗ったら最後、の危険な車。

車に乗っていたのは二人だった。
運転席を助手席から男達が次々に降りてくる。
逃げたらそこで有無を言わさずに狩られる。

私は動けなくなった。

車を降りた運転者は私の後ろに回ろうと歩き、助手席の男は私の目の前に聳え立つ壁となった。

  どう逃げる?

「ウウウウウウ」

柴が唸り声をあげた。
私に今まであげていた噛むぞの唸りが偽物だったとわかったぐらい、その声には殺気が籠っている本気の唸り声だった。

男達の動きがぴたりと止まる。
そりゃそうだ。
柴は私の横の草むらにいたのに、私の前にいる男と私の間に飛び出した後、その唸りを始めたのだから。

これ以上こいつの方に動いたら殺んぞ?
そんな風にして。

  こいつはやる、私の為に戦う気なのだ!!

私は柴の横にしゃがみ、柴の首輪からリードを外すべく手を掛けた。
熊と戦えるこの子は、どちらかの男に大怪我だってさせられるだろう。

「この子のリード、古いせいかすぐに外れちゃうんですよ」

「あ、あの。大丈夫みたいだね」
「そうそう。気を付けて帰るんだよ」

男達は車に次々と乗り込んだ。
私は彼らに、ご親切にありがとうございます、と声を上げた。

そして車は去っていく。
私と柴は目を合わせた。
それが合図になった。
私達は同時に飛び出し、自宅に向かって駆け出していたのである。

私はこれ以上ないぐらいに、必死に足を動かしていた。柴はそんな私にピッタリ密着しながら私の足に合わせて走ってくれた。
私達が無事に、一分一秒でも早く、自宅に逃げ込めるために。
あの車が戻って来たら大変だ。

「うにゃうにゃうううううう」

自宅に帰った私は、怖かった経験で膝が笑っているし息も切れているのに、犬の為に水を用意したり、庇ってくれたご褒美をあげたりもした。
なのに、この犬は、この柴野郎は、私にむかって文句らしきものをもにょもにょと、ずっと言っているのだ。犬語で。

「怖かったんだよね。でも頑張ってくれてありがと」
「ウオウ!!」

「うわ!!当たんなよ。なんで私に牙を剥く!!」

「お前は何で犬に叱られてんだ?」
「え?」

柴は私を叱ってた?私が叱られる方だったとこの犬は思っていた?
犬にムカついた私は、取りあえず十数分前の危機について父に語った。
父にも犬にも、女の子を深夜外に出す行為について反省して欲しい。

「馬鹿。お前が悪い。家の前にいりゃそんな事にならなかった」

「悪いの私か?でも、この子が家の前だけの散歩で満足する犬じゃ無いって、お父さんこそ知ってんじゃない」

「そこを何とかするのが飼い主だろうが。お父さんは家の前ぐらいしか想定していない。この馬鹿娘。犬にちゃんと叱られておけ」

「うにゃうにゃうにゃ」

「ムカつく、お前ら」

しかしこの後、柴は夜中の散歩を一切強請らなくなった。
彼的にも絶対に怖かったんだと思う。
学習能力高い柴犬って凄い。
ついでに言うと、柴って嫌なものは見ない振りをするんだよ。

その四


熊を襲う柴犬は、反抗期のヤンキーみたいに常に尖っている。
つまり、散歩の途中に他所の飼い犬とインカミングすると、喧嘩しちゃうってことだ。

「すいません!うちの馬鹿犬が!!」
「うちは頭を齧っているだけでしたから。大丈夫ですか?」

  くそう!!

  うちの子は喧嘩が少し弱かった。

チャンピオン犬の子供だから、どこの柴犬にも負けない姿形だったけれど、体は柴犬のなかでは小柄な方なのである。
だからなのかわからないが、喧嘩を仕掛に行っては負けている。
私は彼が二回負けた時点で、柴が喧嘩しない道を選ぶべきだと強く思い、彼の身の上を案じて一計を講じた。

  つまり、愛犬家を避ける、だ。

孤高な散歩道。
この道は、お前と私二人だけ、そんな道だ。

しかし神様は人に試練をお与えになるようで、私と柴の征く先に余計な障害物を設置しやがったのである。
ブウ~ンとバンが目の前を走り抜けたと思うと、そのバンは数十メートル先に止まり、綺麗な少女とカッコイイ犬を下ろした。

  私達のいつもの、誰にも会わないはずの散歩コースに、だ。

遠くに見える犬と少女。
手足の長い少女の顔はわからないが、着ている服は私とお揃いだった。
フード付きのジャンパーにショートパンツ、そしてポニーテールだ。
そして彼女が散歩を始めたお犬様は、初めて見たぞダルメシアン、だった。

「ダルメシアンは大きいねえ」

私は自分の愛犬に声をかけながら彼に目線を動かした。
柴は分かりやすいほどに、そっぽを向いていた。
いつもだったら、柴は既に臨戦態勢を取っているはずなのに。

  確かにあれは勝てない、こいつでは絶対に勝てない。

私が柴を見つめていると、柴は私へと首を回した。
目が合った私達は、同時にクスッって笑った。
そのぐらい心が通い合っている気がその時した。

私達は、それッという風に駆け出して、いつもと違う散歩ルートへと一目散に向かったのだから。

その後、ダルメシアンと少女は、一週間ほど私と柴の散歩ルートに爆撃をかました。
柴は毎日違うルートを楽しめる上にいつものコースもあとでプラスできる、という散歩になった事を喜んだが、私はウンザリし始めていた。

  高校生は大学受験のための勉強もしなきゃいけないんだよ?

そして、私がウンザリしたのが分かったかのようにして、少女はある日を境にぱったりと散歩に来なくなった。

「お前酷い奴だな」

とある晩飯時に、父が私を急に責めた。
私は父に何かをしたかと考えたが、全く身に覚えが無い。

「お父さんの革靴の中敷き、出張の日に柴が抜いて隠してたけど、気が付いたのはお父さんが出張した後だもんね。それじゃないよね」

「気が付いたら俺が電話した時に教えて?お父さんね、取引先の人と一緒に入ったお店で中敷きが無かったことに初めて気が付いたの。今日に限って足が痛いのはなぜかな、これかあって。取引先の人がお父さんに向ける視線が、とっても恥ずかしかったよ」

「ごめん。酷い人だった」

「いいよ。柴を叱れないお父さんも悪い。俺を見ない振りすれば俺が消えていると考えて、カーテンに頭を突っ込むあいつに突っ込めない俺が悪い」

全身ではなく、頭だけカーテンに突っ込む愛犬の姿を思い出し、私は吹き出していた。

いつもそう。
悪戯をした日は、家の中では頭をカーテンに、外だったら自分が掘った穴の中に突っ込んで隠れた気になっている。


それに彼は自分が嫌いな蛇や野良猫を見ると、ひょいっと顔を背けて見ない振りをするのだ。
そこに蛇がいるよって彼の顔を蛇に向けようなんてすると、怒る怒る。
犬は自分が見えなければ相手も自分が見えないと思っているのかもしれない。
あるいは消えて無くなる、とか。
これは柴だけの行動?もしかしてうちの子だけか?

「酷い人だよ、お前は。俺の知り合いのお嬢さんを虐めるし」

「いじめ?誰?うちの高校は馬鹿高じゃないからいじめ自体が無いよ?あ、でも、いじめに気が付かないだけかな」

「お前とは別校だ」

「接点まるきし無いな」

「あるよ。彼女は人間関係失敗したみたいで引きこもっちゃったんだって。それで商工会議所でそんな可哀想な話聞いたからさ、うちの娘は誰とでも仲良くしようとしますから、娘とお友達になるようにしてみたらどうですか、ってアドバイスしたの。お前の散歩ルートも教えてさ。それなのにお前、彼女の姿見ると逃げるんだって?酷い奴だな」

「お父さんさ、柴が喧嘩するから他の犬と出会わないルートを私が使ってるって、知ってるよね」

「知ってるよ。だけどさ、あからさまに逃げるって、人としてどうだ?」

「だからさ、犬連れだと逃げるしかないよね?柴がダルメシアンに殺されていいの?逆に賢い洋犬さんにウチの柴が大怪我させちゃってもいいの?犬がいない時に、例えば、外でお父さん達に紹介されてって状況だったら、普通にお話しできると思うんだけど?会うよ?今から紹介しなよ」

「お父さんはその人が苦手なんだ。そんなことしたら親同士が付き合わなきゃだろうが。だからこの方法を取って可哀想なお嬢さんを助けようとお前に期待したのに、がっかりだよ」

「お父さんこそ酷い人だな」


  でも、こんな父が好きだった。


私が映画やドラマ、あるいは小説で、ろくでなしなヒーローに惹かれるのは、結局こんな父親のせいなのかもしれない。

  もう二度と馬鹿話をしてもらえないのがとても悲しい。

その後


柴は十五年目に老衰でこの世を去った。
結婚していた私に実家から電話が来て、内容が、もうあの子は夏を越せない、だった。
電話の時点でご飯を食べないので、この一週間持つかどうか、だった。

私は早めに休暇を取って新潟に帰り、柴を抱き締めた。
私の犬なんて言っておいて、こんなになるまで一人にしてごめんねって泣いた。
柴は私を叱らずに、きゅんと、ささやかな声を上げた。
鼻先で私の胸をつく。
お前の持っているものを寄こせって言う風に。

「ご飯が食べられないって聞いたから、レバーをゆでてペーストみたいにしたんだ。大好きでしょう?全然ご飯食べて無いんでしょ?舐めるぐらいはできるかな?」

私は鞄に入れていた小さなタッパを取り出して、柴の鼻先に差し出した。
柴は弱々しく、それを舐め、舐め、舐め、舐め切った。
彼は顔を上げて、先ほどよりもしっかりした動作で私の頬を舐めた。

  とってもレバー臭い舌で。

「ちょっと元気?」

柴は私の胸に頭を擦り付けた。
柴は私が実家にいた間に死にはしなかった。

これ以上帰省できないからと東京に戻った三日後、彼は息を引き取ったのである。

私を守ろうとした犬は、私の心を守ろうとしたのだろうか。
でも私は、あの子が息を引き取るその場にこそいたかった。


私が大学へと家を出た後に柴の世話を交代してくれた妹は、犬を飼う機会があれば絶対に柴犬が良いと言う。

「だけどね、姉さん。あいつじゃない柴は嫌なんだよ。あいつじゃない子だったら、あいつ以上にろくでなしじゃ無いと嫌だね」

私こそその通りだ。
犬は飼い主に似るという。
あの子の本当の飼い主は、ろくでなしな父だった。
だから、あの子と同じ犬を飼うには、やっぱり父がいないとだめなのだ。


  父を失った私達家族は、二度と柴犬を飼う事は無いだろう。

もういない我が家の柴犬様