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見送る岸辺、人間の家:芦奈野ひとし・ARIA小論


1.人の家


 水の星アクア、海に沈みゆく町ヨコハマ。平成初期の漫画界、アニメ界に、穏やかな、しかし確かな波紋を残した、水にまつわる二つの作品がある。

 「ARIA」、そして「ヨコハマ買い出し紀行」である。

 天野こずえ氏による、未来形ヒーリング・コミックと評された前者では、近未来の火星がテラ・フォーミングを施され、また地球にかつてあった町を模して新しい町をつくり、あるいは移築を行ない、火星に実在のイタリア水上都市ヴェネツィアが再現されている、という設定を基軸に物語が進行する。
 伝統的な風合いと開拓初期のいびつさを混ぜ合わせたこの新しい町ネオ・ヴェネツィアにおいて、ゴンドラを駆使してツアー・ガイドを行なう専門職、水先案内人〈ウンディーネ〉と呼ばれる少女たちの日常が、情感豊かに、またささやかな「不思議」ファンタジー要素を交えて緩やかに語られるこの美しい物語は、サブカルチャー界にひとつの大きなブームを巻き起こすほどに、人びとの心を打った。


 しかし、この作品が高く評価されているのには、「未来形」という属性が大きな役割を担っていることを忘れてはいけない。人はなぜわざわざ火星を開拓し、水を掘り、町を作ったのか。それはつまり、彼らの母星〈マンホーム〉が、人間の文化的居住に耐ええない未来が既に訪れつつあったからに他ならない。

 劇中では、

「マンホームにはこの景色はない」
「マンホームの海ではもう泳げない」
「気候、日常生活のすべてが正確に管理されている」
「きれいになりすぎた」

といった趣旨の会話がたびたびなされる。

 そう、彼らの母星はいわゆるディストピアなのだ。直接的な描写こそないが、この美しい水の物語の裏側には、滅びや衰退、必ずしも幸福とは呼べない未来のありかたが見え隠れし、この光と陰とが、この作品に独特の暖かさと切なさをもたらしているのである。



そして、この「ARIA」に先だって、既にもうひとつの傑作SFコミックが誕生していた。芦奈野ひとし著「ヨコハマ買い出し紀行(以下ヨコハマ)」である。




2.あったかいコンクリート



 「いいな、ふたりは同じ時代に生きてて、同じ船に乗ってる。
               わたしはそれを岸からみてるみたい」
 
 「でもアルファはいっしょにいるじゃん」


 手元に資料がないために、記憶のなかにあるセリフを書き出すことになってしまったが、おおよそこのような会話が、「ヨコハマ」終盤においてなされる。


 「ヨコハマ」では近未来の神奈川県近縁が舞台となっているのだが、この時代では、日本(らしき国)は分割統治されていて、たとえば神奈川県と東京都はそれぞれ別の国という設定になっている(記憶が正しければ東京はムサシノと呼ばれている)。
 この時代では海面上昇が進行していて、多くの砂浜が失われ、低地の町は水没し、夜には街灯や信号機が夜の海中に青く光っているのを見ることができる。人口は大きく減少し、子供は少なく、草の茂った道は荒れ、また崩れている。しかし、「復興」(何からの復興かは明示されないが、おそらく異常気象や急激な海面上昇、津波などの大規模自然災害だと思われる)の時期を黎明期として、アンドロイド科学が発展していて、劇中には人間と見分けのつかないほど精巧なロボットたちが登場する。荒れ果てた岬で一軒の小さな喫茶店を営む主人公アルファも、その一体である。

 飛行技術も大きく発展しているようで、超高高度帯を何年も飛行し続ける巨大な飛行機械「ターポン」は、室長「アルファ(別個体)」と研究調査隊(あるいは施設)を載せたまま、もはや着陸することもできず、なんらかの調査、観察を行ないながら、大気圏を飛行し続けている。着陸ができない理由について明示はないが、おそらく十分な着陸場、着陸支援体制、管制施設また人員の不足、欠落、そして機体自体の老朽化などが原因だと考えられる。


 物語はカフェ・アルファと女性型アンドロイドであるその主人アルファ、少年タカヒロ、その幼馴染マッキ、小さなガソリンスタンドの主人、そしてもうひとりのヒロインであるココネという女性型アンドロイドたちの交流、またそれぞれの日常を起点として描かれていく。
 日常の何気ない会話、海水浴、コーヒー豆の買い出し、町内会の宴会、スクーターと缶コーヒー、人のあまり多くない初日の出の朝……ひとつひとつのできごとや風景はあくまで現代のわたしたちの見ているものと大差ないように感じられるが、逆にいえば、すべての日常の風景のなかに、衰えゆく祭りの活気のようなものが、さりげなく聴こえてくるのである。
 それはこの作品の冒頭に語られるように、「お祭りのようだった世の中がゆっくりとおちついてきたあのころ……」「夕凪の時代」といった趣旨の文言にたしかに現れている。


 この作品の恐ろしい部分は、またこの作品のもっともすぐれた箇所でもある。それは、「アンドロイドと人間の寿命差」によって強く喚起されるもので、つまり、ロボットは年をとらないのだ。
 アルファはいつまでも若々しく、老いることがないのに対し、タカヒロやマッキは成長していき、やがて子を授かる。読者は主人公であるアルファに感情移入をしているから、いつのまにかタカヒロが青年になってしまうのを、彼女とともに目撃することになる。

 いつのまにかガソリンスタンドの主人は隠居していて、いつのまにかマッキは女性になり、次の世代さえ芽吹き始めている。青年は職を求めて町へ去り、岬には小さな喫茶店とアルファだけが残される。読者は否応なしに、彼女とともに、時間の流れに取り残され、また岸辺に立ち、去り行く船を見送ることになるのである。
 この部分に、作品にひそむ緩やかな絶望を、そして夕凪のような衰退を感じとることができる。


 祭りは去り、船はもはや遠い……。




3.失われた遠時間性


 これら二つの作品の類似点について、あえて重ねて語るべきこともないだろう。ここで述べたいのは、両作品の同時代性、そして「芦奈野ひとし・ARIA」間の強い相関関係についてである。
 「ヨコハマ」「ARIA」の類似性については、日常系SFコミックという共通点によって、多くの人に認知されていると考えるが、「芦奈野ひとし・ARIA」という視点において分析がなされたことは未だ少ないように思う。


 天野氏は、「ヨコハマ」のファンであり、影響を受けたと公言しているらしいが、事はそれだけに留まらない。
 芦奈野氏は、「ヨコハマ」以降に「カブのイサキ」「コトノバドライブ」という作品を発表している。前者では、地上のすべてが「十倍」の大きさになった世界を、主人公イサキが小型飛行機に乗って飛び回り、やがて世界の謎にひとり気づきはじめる。後者においては、主人公すーちゃんが、日常に潜む「不思議」を、ひとりこっそり体験していく。

 両作品とも、「ヨコハマ」にくらべて物語世界の描写の具体性が減り、主人公の主観的な体験そのものに比重を置くようになっている。あえて表現するなら、SFを捨て、マジックリアリズムやロー・ファンタジーの方向へ舵を切っているように感じられるのだ。より主観的に、情感の方向へ、より直感的な、欲望、記憶、好奇心、想像力の方向へ、作品の描く範疇が移り変わり、「ヨコハマ」において、ある意味で冷徹な客観世界が、どうしようもなく流れていくのを傍観する感覚が主としてあった、ということにはっきりと対比されているのがわかる。

(無論、「ヨコハマ」においても、情感豊かな主観表現の数々が、詩的に物語を彩っていた、ということはいうまでもない。月琴やアルファのダンス、ミサゴとの関わり……)


 この「主観」の雰囲気については、「ARIA」と強く関連するものがある。「ARIA」が「ヨコハマ」を基盤として構想されたとすれば、「カブのイサキ」「コトノバドライブ」は、「ARIA」の不思議ファンタジー要素を逆輸入し、またそれを活かすため、SFの要素を抑えて作られたのだろうと考えられる。



 ここでさらに、「ヨコハマ」「ARIA」の同時代性について語る必要があるだろう。両作品の描かれた‘90年代末期~‘00年初期に漂う世紀末的雰囲気は、高名な「エヴァンゲリオン」に特に顕著なものだ。時代は大きく移り変わり、ミレニアルとそれ以前の断絶、また同時期の思想的混乱、それ以降の未来への曖昧な不安……。そういった類の雰囲気を、これら二つの日常系退廃SFは、まるで年の近い姉妹のように共有しているのである。


 しかし、この共有された退廃的雰囲気は、いつまでも持続していける性質のものではなかった。新しい希望、しかし個人的な小さな希望と幸福とを、日常の中にこまめに見出して生きることを、人は混乱の中で知り始めたのである。
 この緩やかな精神的ムーヴメントの浸透と普及とは、ミレニアル期の(ある意味で)停滞した、暖かい海のような死の予感、麻痺しきった痛覚の愉悦がもたらす平穏の一形態を、完膚なきまでに不必要とし、破壊してしまったのだ。このことが、芦奈野氏の作品がSFを失ったことの根幹原因であろうと推測される。



 刹那的な幸福を積み上げる時代は、人びとがその虚しさに気づいたとき、終焉を迎える。そして生暖かい夕凪の訪れるころ、地続きの未来と断絶された過去とを見つめる為に、これらの作品の真の意義が、改めて明らかになるのだろうか。





ところで、アルファ、つま                          り「α」とは、ギリシア文                            字アルファヴィトの第一字                            であり、また「最初のもの、                            はじまり」を意味する。

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