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世界激走 オーストラリア編3

そして、僕たちは、蚊にボコボコにされながら、翌朝、アリススプリングスに向け出発した。
内陸の道になると道は舗装されているが、道の両側のいたるところに、牛やカンガルーがオーストラリアの大陸間輸送の巨大なトラックに跳ね飛ばされ、腐敗した死骸が至るとこに転がっていて、それを見るのも嫌なのだが、エアコン無しで、窓を開けて走っているので、車内に、ものすごい匂いが入ってきて、げんなりしてしまう。
牛もカンガルーも可哀そうだが、オーストラリアのトラックは、ただ巨大なだけじゃない、4,5両の編成で走っているので、急ブレーキなんかか掛けられないし、かけても、止まれやしないし、逆にバーストなど、何が起こるか分からない、よって、よのまま、ひいてしまうのだろう、まあ、致し方ないことだと思う。
そしてまた、真直ぐな道が続くのだが、さすがに、ガソリンスタンドだけは、2、300キロ間隔ぐらいであり、あれば、必ず寄ります。給油忘れは命取りになるので、とりあえず給油して、
その時に食事もするのだが、必ずどこのスタンドでも、食べ物と飲み物が買えるので、お腹が空くと、ほぼどこでも、ステーキバーガーとフルーツジュースを買っていました。
おそらく、1984年当時では、僕は、間違いなくオーストラリアにおける、ステーキバーガー評論の権威だったと思います。
いつもお腹を空かせていたせいもあるとは思うが、とこのステーキバーガーも、野菜たっぶりで、感動するほどにとても美味しかったです。
アリススプリングスの町で、ヒッチハイカーのスエーデンから来ていた、青年といっても、頭はすでに薄かったが、を乗せ、エアーズロックに向かった。
エアーズロックに着いた時には、もう暗く、とりあえず宿を探した。
エアーズロックでは、エアーズロックが登れなくなっる少し前から、エアーズロックの近辺の宿は、どんどん少なくなっていて、近くのエアーズロックゾートに集約されているが1984年当時は、まだ、点々と宿はありユースホステルもあったので、ユースホステルにチェックインした。
そのユースには、プールもあり、そこで、バシャバシャ泳いだ後、プールの周りのテーブルで、飲んだビールがとても美味しかった。
ところが、プールで泳ぐときに、海水パンツが無いことに気が付いた。
キャサリン溪谷に温泉があり、そこで海パンを履いた時に置いてきてしまったようだ、海パンを短パン代わりに履いていたので、少し困った。ただ、下着のパンツは、トランクスタイプを愛用しているので、問題ないだろう。
その後は、街中でも、暑いのでパンツ一枚でフラフラすることが多くなった。
僕は、アルコールはほとんど飲めなかったが、その時は美味しく感じた。
そして、僕たちは片言の英語で、会話をすると、彼は、僕らよりけっこう年上で、スエーデンでは、ある期間、社会人として働くと、大学に無償で通えるという制度があるらしく、その制度を利用して、今は大学生だと言っていた。

登るぞエアーズロック


そして次の日、ガイドブックの指示に従い、日中の熱い時間帯を避け、午前中の早い時間からエアーズロックに登り始めた。
当時は、そんなに登っている人も多くなく、すごい勢いで、登り始め、たぶん、20分ぐらいで、頂上の石碑があるとこまで登り切ったと思う。
そこは、驚きの世界だった。

エアーズロック頂上から見る旧称マウントオルガ、ホントはもっともっと綺麗なんだけど

神や宗教など一切信じない僕が、もしかしたら、神っているのかもとさえ思うくらいだった。
原住民のアボリジニの聖地であることも分かる気がした。
彼らは、この当時から、神聖なる地にづかづかと登るのは許しがたいと国と争っていて、徐々にこの周りから、宿などが消えていき、とうとう2021年に登ることも禁止となった。
頂上からは、地平線まで続く赤い大地と真っ青な大きな空の境目に当時マウントオルガと言い今ではカタジュタと言われている、岩群が見え、僕にはそれが、優雅に泳ぐ鯨のように見えた。
名称が変わるのも、彼らの要求のようだ。

旧称マウントオルガの近くで

後に、そこは、風の谷のナウシカのモデルになった場所だと知ったが、まさしくその世界観にぴったりだった。
何から何まで、原住民のアボリジニ色が強くなっていて、今では、エアーズロックもウルルとかに変わっている。
でも、エアーズロックでもウルルでもどっちでもいい、僕の頭の中には、呼び名ではなく、しっかりとその風景がイメージとして焼き付いていて、いつでも浮かび上がらせることが出来る。
実は、旅を始めるにあたり、大学4年生という人生の岐路だったことで、ノー天気な僕も色々悩んでいた。

目的は、ただ、オーストラリア一周するだけじゃなく


大学4年の夏に、づっと、心を寄せている人と、久しぶりに再会した、当時僕は、なんか、色んな事が上手くいっていて、少し有頂天になっていたのだが、その女性に会った時に、頭から、冷や水を掛けられたような気持ちになり、このままじゃだめだと思い、それも、この旅を決めた一因だった。
だが、当時、海外への自由旅行などする人は少なく、航空券も、レンタカー代も、大学生の僕にとっては、ものすごく高額なものだった。
半年かけコツコツバイトして貯めたのだが、旅の目的として、自分を見つめなおしたいということはあったとして、大金をかけて、こんなことして、どんな意味があるのかとか、自分を見つめなおして、何者かに変われるのか、車を運転しながらも、くよくよ考えることが多かった。

頂上の石碑のプレートこの下にノートが置いてある場所があった。

で、頂上の石碑のところに、一冊のノートがあり、そのノートは、ここまで登ってきた人が、自由に記述できるようにあるものだった。それを手に取り、パラパラとめくると、日本語の記述が目に留まった。
その人は、自転車で、エアーズロックまで来て、自転車を担いで、エアーズロックの頂上に登ったと書いてあり、そして、自転車と一緒に登ったことに意義がるみたいに書いていた。
それを読んだとき、何か分かった気がした。
大多数の人は、自転車を担いで登ることに、なんでと思うだろう、でも、僕には、その気持ちがよく分かったっし、なにより、ほかの誰かに意味があることではなく、自分にとって意味があることをすればいいんだ。
なんか、心の中がスーッと晴れた気がした。そこでのことは、僕の人生にとって、大きなターニングポイントとなったと思う。
エアーズロックは、僕にとって、そんな場所なので、思い入れも強い。
そしてこの時、あまり人もいないことと、ここで、願いを言えば叶えてもらえるかもと感じ、大きな声で、愛を叫んだ。
だから、あのドラマのタイトルを見たとき、僕の事かと真剣に思った。
小説が出るより、けっこう前の話だ。
そしてその恋がどうなったかは、またいつか。
本当は、もっともっと長い時間頂上に留まりたかったが、暑いしお腹は空くしで、1時間ほどで、降りることにした。
エアーズロックには、もう一泊し、翌日、念願だった、西海岸の海に向け出発した。
来た道を戻り、アリススプリングスで、スエーデン人を下ろし、なお北上し、分岐点を、ダーウィン方面ではなく、タウンズビル方面に向かった。


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