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想像力=世界を革命する力 を!

想像力にかんして、『新しい人よ目覚めよ』の大江健三郎がバシュラール(僕はこの人を大江文学を知るよりも前に知っていた。<水>にかんする『物質的想像力批判』の一部を読んでいた。そして大江さんがどこかのインタビュー記事(叢書ウニベルシタスについてのものだったと思う、バシュラールの邦訳本の出版社だ)で『空と夢』の話をしていたのも読んでいた)から学んだと、また僕ら読者に教えることには(大江さんはサルトルから発して『空と夢』にたどりついたのだった)、想像力とは基体となるイメージを「歪形」する操作力である。
大江さんが作家活動の中心に据えた想像力に対して、僕は2人の哲学者から、また僕自身の体験から、あらかじめ一つ漠然としたイメージを抱いていたけれど、大江さんが自身を語り、自身のイメージを変革し、その度に豊穣となったイメージの養分を当の作品中で喰らい尽くして枯れさせ、また次の作品で再びの操作で復活し死にゆく......つまり再生と再死を1セットとするイメージの手法(それはイメージそのものに対するイメージ、とでも言うべき方法論の実践となっていて、現代小説のひとつの達成である。2つの意味で極めて現代的なのだ。A.イメージの一生を一作品に具体化する、という操作にほとんど自覚的な労作群を、テーマ別論文集のように大江健三郎全作品集としてパッケージングできるというメタ・イメージ的意味で、B.そういう一連の操作よって、われわれがもはやイメージを貪欲に喰らい続ける仕方でしか生きていけないヴァージョンに投げ込まれている現実を、つまりイメージの変化を強制されるスピードが著しくはやまった僕らの生命的形式を、詩情として具現化する時代代表者=作家がつくりあげられているという意味で(そのうえ、大江さんは『同時代ゲーム』で、同時代史を試みているのだ!)を読み感受するにつれ、確固たるイメージをなし、ついには人生の指針となった。イメージを形式=概念とランガー的に読み換えるならば、人間の想像力は、メタモルフォーゼにあり、隠喩という形式の成長法則を実行する力である。そして隠喩は僕らがなんらかを表現するところではいつだって働くべきであるし、そうでなければ、究極呼吸をとめることでさえある。というのも、自然数の構成みたく呼吸を積み重ね、順序をもって時を流すこと自体、ひとつの表現だと言えるからだ(もっともそれが現実に強く作用するということは考えにくいけれど、ともかく呼吸をするたびに僕らは次の僕らにズレる。そうやって基本的な生命活動をも「隠喩」に含めることができる)。僕らは常にズレているのだ。
僕はこうした主張の萌芽を、すでに名前をあげた2人の哲学者から学んでいた。ガストン・バシュラールとスザンヌ・ランガーである。2人は20世紀中葉の旧大陸と新大陸でそれぞれメインストリームとはならない意欲的な作品を著したのだが、共に芸術を主な対象としたこと(この点ではバシュラールが詩的イメージに殉じたのとはことなり(『空間の詩学』等、けっして具体的芸術としての詩のみに拘り尽くしたわけではない、けれどそこに詩を基体とする明確な意図があることは否定できない)、ランガーは多様な表象群を論じた(音楽にある種の特権=純粋性を担わせつつ、それをヒエラルキーに転化させないよう注意を払って種々の表象の特性を開示してみせた)。その点で、イメージ=形式=概念を人間的視点で捉えていた。彼女の形成したpresentational symbolとは、けっして言語的、数学的分節には留まらないイメージであり(詩的形式もそこに含まれる)、彼女の絶対的な業績に数えあげられるべきだし、シンボリズムについての彼女の基本的着想は彼女を手厳しく批判したグッドマンにも引き継がれている)、および表象の生命力に注目したこと(この点、バシュラールは世界を表象する4つの基体イメージ(イオニアの自然哲学から着想を得て)=水、大気、火、大地の隠喩的発展を執拗に分析し、イメージの変化を多様な詩人について追いかけたし、それは各詩人を根本的に色づける、非常に興味深いタイプ分けをともなっている。このことは、イメージが実在と虚構とを媒介し、人間という中間存在のリアルとして生命現象を捉えていたバシュラールの視座を示唆するのではないか)は、僕もまた2人の系統に我身を投げ込み投げ込まれている以上、無視できない。表象のズレは体験において現象そのもののズレだから、僕らは隠喩によって世界を更新していける(だからこそ、イメージは僕らがそこで世界を体験していける「物質」だと、バシュラールはみなした)、そして僕らは世界を新しくすることで生きていく......つまり隠喩が現実の駆動力であるというテーゼを、人生のコアにさし貫くと決めた以上。
大江さんが『新しい人よ目覚めよ』において僕に示したのは、こういった理論そのものを血肉にしていく、作家の作家としての実践だった。大江さんは、僕らが日常小市民としておこなうコンパクトな栄枯盛衰を中心的詩情としたのだ。さらに、イメージが氾濫したモダンライフにいる現代人が、その氾濫に順応するために生理的に習得した技術、要するにイメージなるものを自覚する技術を、まさに時代の突端で波濤の飛沫をあびるものとして描ききる。それは彼自身が積極的に発してきたメッセージに伏流していて、モダンライフスタイル=氾濫するイメージの処し方=隠喩の扱い方の提示なのだ。具体的には、あるテキストを別のテキストにズラし重ね、その隙間に表象を「歪形」し、新しい解釈を実践するという技術である。ここでいう「テキスト」はもちろん素直に物語や論文、なにかの説明書すら含む文字資料であるし、画像でも音楽でも、雑談でも、瞑想でも、食事でもよい。障害児との共生でもよい。日常生活を揺るがす困難でもよい(その方が好ましいだろう)。とにかく程度の差こそあれ、体験すべてが、元のテキストに重ねあわされ、いっそう複雑な文目をもたらす。そしてこれらすべてのテキストは次第に一枚の緊密な織物となり、それをわれわれは人生と呼ぶ(だから体験に乏しい者の生は、人生というよりはむしろ物質的生である)。人生は隠喩の繰り返しにしたがって強靭さを増し、豊穣な厚みを帯びる。ブレヒト的異化作用は僕らの人生を豊かにするし、慣習に純化された者は没個性的になる。集団としてのテキストに新しい文目をもたらすスタイル(それは一本の論文や一枚の絵画が示すものの見方であったり、スーパースターのライフスタイルであったりする)が示すものは現実を変革する。そうして織りなされるスタイルが文化であり、僕らが吸って吐くエートスである(故郷喪失の羊たちが直面する最大の受難のひとつは、この強力な文化的テキストを除かれている点にあるかもしれない(ここでの故郷喪失とは、単に難民等を示唆しない。むしろ特徴を消された場所で生まれ育つことである。他にいくらでも代わりのある街、コモデティ化された街で生まれ育つことだ)。故郷が無臭であるのは、僕らが最初に手にできるはずのテキストが存在しない点で、想像力の成長を阻害するのではないか)
ここから僕はまたひとつ人生の指針を抽出する。スタイルを磨け、複雑にしすぎるな、無鉄砲にテキストを重ねるな、と。そうしてできあがった人生の、ただ混迷でしかない模様には時代と照応する力=想像力が失われてしまっているから。混迷した模様に重ねてできた隙間に新しい方向を与えるのが想像力であり、それは常に一つのスタイルを要求する。なんでも屋の普遍性には、運命に対峙する力=想像力はない。そこには運命という外圧を丸め込む無数の文があるだけで、ワクワクさせる隠喩、歪形の力=想像力はぼやけてしまっているのだ。斜に構えて納得してはいけない。悩み苦しまなければならない。だからスタイルは素直でなければならない。そして素直さとは、一歩一歩愚直に物語る歩み方そのものだと、僕は信じている。ビギナーズラックの衝迫を除いては、それによってのみスタイルはベクトルをもちうるのだ。よって個性は輝き、世界を回転させうる力=想像力をえるのだ、と。
(大江健三郎『新しい人よ目覚めよ』p183が目にとまって 2023/12/29)

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