深海に漂う⑤

この家の持ち主が女性と分かり、少しホッとする。
改めて、自分を見る。
濃いグレーのスウェットの上下。
式用のしっかりメイクは落としている。
いつものクセで、スウェットの匂いを嗅ぐ。匂いフェチなのか、初めての物は衣類でも食物でも必ず匂いを確認してしまう。
柔軟剤のフローラルと柑橘系の甘く優しい匂い。好きな匂い。
その瞬間、昨夜の事を少し思い出した。
耳元で聞こえる「大丈夫、大丈夫。」の声が、とても心地よかったのを覚えている。
そうか、久し振りにグッスリ眠れたのは、この声と抱きしめてくれた温もりのおかげだ。
…抱きしめてくれた?
初対面の酔っぱらいを抱きしめて寝る事は、きっと普通はない。
いや、そもそも、知らない人間を拾って帰る事もないだろう。
私が抱きついたのか?きっと、そうだろう。それ以上の事は、しなかっただろうか。何かしていたら。もしくは、しようとしていたら…。
急に、不安と恥ずかしさが襲ってきた。環さんの手紙の端に、
「ご迷惑をおかけしました。色々ありがとうございました。昨夜のごはん代とその他諸々に。」と書いて、財布に入っていた1万円札を置く。
足りないかも…と思いながら、最近は現金を持ち歩かないのでコレしかない。

鞄と一緒に置いてあったコートを羽織る。スウェットにパンプスを履きながら、コートがロングコートで良かった、なんて思いながらタクシーを呼んだ。

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