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まずは自己紹介から その2

前回の続きです(^^)

DPROで活動している時に、沖縄戦を描いた映画『GAMA 月桃の花』と出会います。監督は大澤豊さん。『遥かなる甲子園』『アイラブユー』を創った方です。残念ながら『GAMA 月桃の花』は、ろう者1人も出ていませんでしたが、監督さんはろう者の存在を知っていらっしゃったからでしょう。日本語字幕が付いていたのです!! 迷わずに観に行きました!この映画で沖縄戦の実情を初めて知りました。ほとんどの住民たちが小さな島の中で繰り広げられた激しい地上戦の中で必死で逃げ回ったこと。沖縄には天然洞窟が島内に多くにあり、多くの住民の避難場所になっていたこと。洞窟の琉球語が『GAMA ガマ』、作品のタイトルにもなっています。映像の中に住民たちが数ヶ月間も間、ガマの中へ避難生活している様子が出てきます。ガマの中は真っ暗なのです。これを見て、当時の聾啞者達はここで過ごしたのだろうか。私だったら、何も見えない真っ暗の中で1日過ごすのもとても無理です!気が狂ってしまいそうです!! 当時の聾啞者達はどのようにして沖縄戦を生き延びたのだろうか。気になって仕方がありませんでした。この後すぐに沖縄県立図書館や資料館、文化センターなどへあちこちとFAXして、聾啞者と沖縄戦に関する資料を取り寄せてみましたが…、あまりにも少な過ぎて落胆しました…。それなら、本人に聞きしに沖縄へ行ってみよう!!!と思い立ちます。

私の師である野呂一さんに私の気持ちを伝えたところ、『フィールドワーク』という言葉とお勧めの本を頂きました。そして、DPROの大ボス、米内山明宏さんと引き合わせて頂きました。ろう年輩への取材活動なんて何ひとつ経験ない私に米内山さんは快く、沖縄にいる同級生と友人を紹介し、挑戦してみるといいと励ましてくださったのです。ここも米内山さんの紹介なくしては、今の私はいません。人の縁は本当に大きく、ありがたいものです。

会社を退職して、船に乗り込んで沖縄へ飛び込んだ私の勢いは、到着直後にあっという間に突き落とされてしまうのです。出迎えて頂いた方の紹介で早速、沖縄戦争体験者にインタビューできたのですが…手話が読めないのです!!!ろうの両親を持つ私は幼い頃から色々なろう年配の手話を見てきたので、当然のように、読み取れると思い込んでいましたが…古い琉球手話が分かりません。そして、「日本人ね。日本から来たのね」とにこやかな顔して言われます。急に目の前が暗くなり…深い溝が隔っているというか、初めて感じる衝撃でした。あの時の感覚、いまだにも忘れられないです。
まずは、なんとか琉球手話を覚えて、本人とコミュニケーション取れるようにしなくては!! 週に2回集まる、ろう老人のゲートボール部へ毎回、顔を出しました。同年代のろう者が集まるところも色々行きました。彼らにとって、いきなり、よそ者から来た私に情報を与えて突き放さなかったのは、他ならず、米内山さんの紹介者だったからなのです。
3週間過ぎた頃あたりでしょうか。ようやく、現地の人たちが受け付けてくれて、ボツボツと沖縄戦の様子を語り始めて頂きました。琉球手話も読み取れるようになり…次々と取材に応じて頂きました。私の知りたい気持ちが満たされていきました。そして、同時に私がこれまでに知った沖縄の歴史とは、また違う、ろうの歴史があった事も知るのです。

どの本にも載っていない、聾啞者達の生の声(手話)を聞く(見る)愉しさ。そして、作品することによって、改めて学ことが大きいものがあります。編集や字幕制作のために何度も映像を見ては新しい気づきと発見があります。私だけの特権♡
じゃあ、東京・横浜大空襲の時、聾啞者達はどうしていたのだろうか。広島・長崎の被爆聾啞者達は??と次々と当事者からの話を聞きたくなり、私の取材活動を歩むことになったのです。


『聾啞者達の沖縄戦』(2000年度制作、77分間、日本語字幕あり、VHSのみ、絶版)

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