自由を愛し だから別れること ―竹内まりや(作詞・作曲)「らせん階段」―

「逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり」


名うての色男であった権中納言敦忠によってこの和歌が詠まれたのは、はるか1000年も前と言われているが、数多ある恋愛の金言の中でもこの歌ほど核心をついたものに私はまだお目にかかったことがない。

恋に恋しているうちはまだいい。あの人の幻を愛しみ、好きなようにその幻を愛玩していられるのだから。だが、恋心が通じ合ってしまってはそうはいかない。とあるサイトではこの和歌の説明として、逢瀬を遂げた後に募る一層激しい恋情と愛の幕切れへの不安が巧みに読み込まれているとある。サイトの主が言わんとしてることは分かる。ただ他方で、その解釈は少し甘いのではという気もする。私がこの和歌から読み取るのはまさに次のことだ。


「相手を好きになりすぎると、自分の形が保てなくなってしまって壊れてしまう」

白状すれば、実はこの言葉、私が考え出したものではない。行定勲監督の映画「窮鼠はチーズの夢を見る」にある台詞である。そして言うまでもないことだが、この台詞は敦忠の和歌とはいかなる直接的関係も持たない。しかしながら、私には、彼が伝えたかったことはこんなことだったのではないかという気がする。


片想いは確かに苦しい。けれど実体の伴わない幻を愛するうちは、その苦しみさえも愛傷に昇華される。あるいは浸っていられる。ところが、一旦その幻に実体が伴ってしまえば、自由気ままな愛玩や愛傷など淡い過去に消えてしまう。別の言い方をすれば、たとえ自分の中で繰り広げられる甘く苦しい思考/妄想であっても、その主導権はもはや自分だけには存し得ない。むしろ、自分に出来るのは「自分の形」が崩れてゆくのをただただ傍観することだけ。幻の時間から放擲され、愛にがんじがらめにされ、「自分の形」が崩れてゆくのを傍観するしかない。そんな情けなさや後悔、気持ちの悪さを私は先の和歌に読み取ってしまう。それはいわば自分に向けられたベクトルなのであって、決して相手に対する感情などではないような気がするのだ。


そして、恋愛が持つこうした不自由さを機敏にキャッチし、見事な手さばきで歌へと昇華させた人物を私は一人知っている。竹内まりやだ。

いくつも魅力的な歌はあって、そこから一曲を選ぶのは大変至難の業だが、今日はその中でもあまり知られていない曲を取り上げることにしたい。


「らせん階段」(1982年)


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竹内まりやが作詞・作曲を手掛けた「らせん階段」は、増田けい子(現・増田恵子)の3rdシングルとして1982年に提供された。ご存じのように、増田けい子はピンクレディーのケイとして1970年代後半に大変人気があった。だが、アメリカ進出計画を境に、彼女たちの人気は急降下する。そして1981年、ピンクレディーは解散。


しかしケイの活躍はそこで終わることはなかった。同年、増田けい子として彼女はソロデビューを果たす。記念すべき1stシングルの「すずめ」は、中島みゆきによるもので、スローバラード。ピンクレディーとの落差は当時衝撃を与えた。続く2ndシングルはユーミンのカバー。そして3rdシングルが竹内まりや作詞・作曲の本曲である。

ただし、デビューシングルと比べれば、この曲は正直なところ知名度の点で劣ると言わねばならない。とはいうものの、当然のことながら楽曲のレベルは非常に高く、竹内自身が歌っていればもう少しヒットしたのではないかという気もする。

歌詞のストーリは次の通り。ある事情で3年前に別れてしまった男と女。今日は2人が「再会を祝う夜」なのだ。待ち合わせ場所はおそらくホテルのロビー。女は浮き立つ心でチャコールのコートを着て来たが、少し「淋しい色かしら」なんて気にしている。男は少し遅れているようで、女の目は「さっきから回転ドアの 回る数数えて」ばかり…


2人がかつて別れた理由はサビ直前で明らかにされる。

「自由を愛し だから別れた」

かつてはOLのバイブルとも言われた竹内まりや。彼女は恋愛を決して綺麗に描きすぎない。恋愛が孕み持つ哀しさも割り切れなさも、いやらしさもそのままに描き切る。「自由と孤独は2つでセット」とか「今の彼を愛しているのに 時々悲しくなるのは どうしてかしら (…)二度と会わないと決めたあなたが気にかかるのよ」なんて歌詞を見ればそれは一目瞭然。そんな彼女の恋愛観がこの「自由を愛し だから別れた」には詰まっているような気がする。

恋愛とは通じ合ったが最後、自由を脱ぎ去ってゆく行程に変化する。自由でいるためには孤独でいなければならない。寂しさの徒然に恋を重ねることが必ずしも忘れ薬になるとも限らない。自由を愛し、「自分の形」を保ち、「逢ひ見ての のちの心」から逃れるためには、恋愛への道を選ばず、時には別れることさえ選び取らねばならない。恋愛の教祖の作品から浮きあがる恋愛観はほろ苦い。


「前よりもずっと素敵な恋人になれる」


しかし、「自由を愛し だから別れた」には続きがある。歌は次のように続いている。

「あれから幾つもの恋を抜け わかったことはただひとつだけ 今でもあなたが 大好き」

歌詞の中の女性は結局、自由を選びはしなかった。むしろ自由=孤独を謳歌しながら、彼への変わらぬ強い思いを再確認していたのである。

では2人はまた互いの自由を制限しあう関係に戻ってしまうのか。竹内の導き出した答えは歌の最後で明らかとなる。


「人生のらせん階段 またひとつ上がって 前よりもずっと素敵な恋人になれるわ」

ここで楽曲の題名に繋がってゆくのである。蓋し、竹内は恋愛の流れ着く先を悲観などしていないし、ほろ苦い恋愛、ひいてはほろ苦い人生を歩む私たちをいつも温かいまなざしで見つめているのではないか。自由がまた失われることを知っているのに、それでもまた恋人関係になろうとする男女。けれど、彼らは「人生のらせん階段」を昇ったのだ。きっと同じ失敗もするだろうけれど、「今度こそは」と期待したっていいじゃないか。「前よりもずっと素敵な」ものが待ち受けていると信じたっていいじゃないか。生きるってそういうことじゃないのか。

人間とは「自由を愛し だから別れる」もの。本質的にみんなひとり、孤独になってしまう存在である。けれどだからこそ、「小さな温もりやふとした優しさ」を大切にし、前へ進んでゆくことも出来る。昔と同じ選択をしたっていいじゃない。きっと今度は違った階に上がれるはずなんだから。


竹内まりやが幅広い世代に愛される理由はこんなところにあるのではないだろうか。だって私たちは完遂できもしないくせに「自由を愛し だから別れ」がちで、いつも「失ったあとで 真実に気づく」ほどに不器用で、しかも容易にこうした事実を受け入れようとはしない生き物なんだもの。

「自分の形」を保てなくなるほど目下恋をしている私は、きっと死ぬまで竹内まりやを聴き続けるんだろうなあ



とはいえ、やっぱケイちゃんにこの歌は、ちょっと早すぎたんじゃないかなあ……


リンダ・ホワイトブレンド

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