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172 シャンソン歌手のT先生

Tさんは私が最も親しかった同僚です。国語の男性教師で親友とも呼べる人です。年齢は私よりずっと若いですがとても頼りになる存在でした。悩み事にも親身になって相談に乗ってくれました。博識で授業の面白さは生徒の間でも評判でしたが、生活指導は厳しく、生徒を叱るときは半端ではありませんでした。

発する言葉も辛辣でした。でもなぜか反感を買うことはありませんでした。「おだまり!」が口癖で、生徒が口ごたえでもしようものならカミソリのような鋭い「おだまり!」が飛んできます。彼に「おだまり!」と言われた生徒は蛇に睨まれたカエルのようでした。でもそこには生徒への思いが感じられ生徒も信頼していました。

そんなTさんには教師以外の別の「顔」がありました。シャンソン歌手としての顔です。アマチュアですが歌唱力はプロ並みでした。シャンソン喫茶で歌うこともあり、私も何度か聞きに行きましたが、大きな羽飾りのついたあでやかな衣装に身を包んで歌う姿は学校での姿とはまったく別でした。語りかけるように歌う彼のシャンソンに私はいつも魅了されていました。

Tさんとはよくいっしょに飲みに行きました。なじみのゲイバーにもたびたび誘ってくれました。彼にはゲイの友達がたくさんいましたが、彼自身がゲイだったかどうかは私にはわかりません。当時はLGBTQなどという言葉はありませんでしたし、彼がカミングアウトしていたわけでもありません。私も彼に確かめたことはありません。そもそも彼がLGBTQであろうとなかろうと私の親友であることに変わりはありませんでした。

その後Tさんとは職場が別になりました。職場が違ってもずっと親しくしていましたが、ある時期Tさんは体調を崩し、病休を取ることになりました。そして病休中のある晩遅くTさんから私のところに電話がかかってきました。いつになく気弱な声でした。Tさんは「自分はもう仕事に復帰できないかもしれない」と言いました。泣いているようにも思えました。私は「大丈夫。あせらないでまず身体をしっかり治して」と言ったのですが、それをTさんがどう受け止めたたかよくわかりませんでした。夜遅くに電話をしてきたことも気がかりでした。だから電話を切ったあと私はすぐにかけ直しました。何となく嫌な予感がしたからです。Tさんは電話に出ました。そして「がんばってみる。ありがとう」と小さな声で言いました。それがわたしの聞いたTさんの最後の声でした。

Tさんは数日後亡くなりました。死因は公にされていませんが「もしかしたら…」という気持ちが私の中にはあります。華やかな衣装でシャンソンを歌う姿からは想像できない生きづらさのようなものがTさんにはあったのかもしれません。私はTさんのことをどこまでわかっていたのだろうかと自問する日々が続きました。


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