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チバユウスケの訃報を受けて

訃報が目に入った時、ウッと言葉にならないような声が出たが、140字で何かを言う気にもならず、ただ大学のラウンジみたいな所で書きかけの卒論を置いて座っていました。さっき友人と話して少し楽になったからパソコンに文字を打っています。取り敢えず何かを形にしないとこの暗い気持ちのまま年末を迎えそうで、ちゃんと自分の中で昇華させてから2023年を終わらせたい。

私は今22歳で、thee michelle gun elephantが解散ライブを行った時はまだ2歳か3歳なので、勿論ライブを生で見たり音源の解禁を心待ちにしたりといった経験は無い。彼らを知ったきっかけは定かではない。大好きなASIAN KUNG-FU GENERATIONの名前の由来になったからなのか、当時聴いていたスクールオブロックというラジオ番組で番組パーソナリティのグランジ遠山氏がよく話題に出していたからか、叔母さんが大ファンだから教わって聴いたのか、YouTubeでたまたま聴いたからなのか。とにかく中学2年生の頃に自分に起きた沢山のアーティストとの出会いの中で際立ってかっこいいな、と思わせてくれたバンドだったという漠然とした思いだけがある。

確かに覚えていることはブックオフの100円コーナーで「cult grass stars」を見つけて買ってウキウキして帰って聴いたことだ。かといって、そのアルバムがめちゃくちゃ鮮烈だった訳ではない。YouTubeで聴くライブ映像よりはいくらか泥臭く、今思えばルーツであるロックンロール~ブルースっぽい質感な訳で、中学生の私には少し難しかった。でもウォークマンに入っている限られたアルバムのひとつではあったから何回も聴いた。「世界の終わり」が収録されているのが大きかった。その後、今度はTSUTAYAでライブ盤"LIVE OR DIE"を借りた。これは何回聴いたか本当に分からない。ライブハウスらしい籠った質感の音に滾る熱とひたすら加速していく演奏、カタカナ単語で連なる曲名、まだどの楽器がどうとかは分からなかったけど明らかに異常な何かがパッケージされていることだけは確かだった。付属品に8cmCDが封入されていて、そこに収録されている「ジェニー」は自分の中で未だにこれを超えるライブは無いと言い切れる。サブスクで聴けないし8cmCDはリップング出来ないから確かめる手段も無いのだけども。

そういえば、スクールオブロックでパーソナリティ遠山氏が退任するときに内緒でメッセージを送る企画があり、「thee michelle gun elephantを教えてくれてありがとう」、とメッセージを吹き込んでそれが流れた思い出がある。

とはいえ、ミッシェルは私が物心ついた時にはもういないバンドだったから、同時代を生きているという感覚は勿論無かった。それでも彼らが自分に近いなと思わせてくれた理由にThe Birthdayやウエノコウジの活発な活動とアベフトシの存在があったのだと振り返ると思う。ウエノコウジは自分が傾倒していた細美武士と一緒にバンドをしていたし、見ることは叶わなかったけどThe Birtdayもフェスのラインナップを見ると良くその名を目にした。そしてそういったバンドを見るためにYouTubeを覗くと、必ずアベフトシについてのコメントがあった。チバユウスケがアベフトシについてMCで語る動画も流れてきた。アベフトシについてそうやって聴いたり見たりしたから、アベフトシの訃報をリアルタイムで知ったわけでも無いのに、ずっと知っていたギタリストを失い、その意思を受け継いでいる3人という見方を勝手にしていた。不思議な現象だけど、心情としては確かにそうだった。

友人と話していても、ミッシェルはかなり共通言語に近いものだと感じることが多い。YouTubeの普及とか、関ジャムとか、ギタマガとか、色んな媒体がミッシェルが非リアタイ世代の中でここまでのポピュラリティを持っている理由として挙がるとは思うが、やはりミッシェルの鮮烈さは特定の時代に収まるものでは無かったのだろう。去年は文化祭でコピバンもやったし、音楽を好きになってからはずっと自分の中で大きな存在として君臨していたのがミッシェルガンエレファントだった。

そして、今日のニュースが届いた。チバユウスケが書いた詞を聴きながら結局5時間くらい作業をしているが、刹那的な、後腐れの無い、それでもちょっと寂しい歌詞が多いなと思う。「振り返らず/錆びた風は進むだろう」「あたたかな日々を/こぼれ落ちる」「世界の終わりが/そこで待ってると/思い出したように/君は笑い出す」とか。the birthdayになると「涙がこぼれそう」「愛でぬりつぶせ」みたいな、ミッシェルから大きな変化は無く散文的な一筆書きで書かれたようだけど、少し暖かい歌詞もあってゆっくり着実に変化があったのだなと。やっぱりその先でどんな歌詞を書くのかを見たかったし、ライブも見たかった。

ミッシェルは自分の中で常に「かっこいいかどうか」の尺度として機能している。立ち姿も、バンドで鳴らす音も、音のまとまりも、何かを見るたびに知らず知らずのうちにミッシェルと比べていると思う。そしてミッシェルを生で見たことが無いのだから、頭の中で想像するミッシェルはどこまでもかっこよくなっていく。一生縛られていくのだろうが、それは仕方ない。好きなのだ。      

今年は亡くなったミュージシャンがとても多い。勿論とても悲しいし、ニュースを受けて聴き返したら色々な発見があってセンチメンタルな気分になることを繰り返した。二度と「亡くなったんだな」という思い抜きに聴けることが無いのだと考えると、今自分がこの瞬間に聴いている音楽はより耳を澄まして、なるべく全身全霊で聴かないとなぁ、と襟を正さねばと思う。そしてもう一つ、ミュージシャンという存在が少し羨ましくなる。自分が死んでも自分が生きていた証がこんなにも確かに刻まれていることに。月並みですが、自分も音楽という形ではなくとも、誰かの記憶に残るような何かが残せると良い。長くなったが、こうやって気持ちをドバーッと書くと少しフラットになった気がする。ご冥福をお祈りします。

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