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はじまりはいつだって異質なもの


今日の映画は

チョコレートドーナツ

このnoteは私が触れた本や映画からの学びをアウトプットするための備忘録のようなものです。


Talk 1 / 偏見のはじまり

まずはじめに、この映画のあらすじを紹介する。今から40年程前にゲイバーで働く主人公にゲイを隠して生きる弁護士の男性が恋に落ちる。主人公の隣人は薬物中毒で逮捕されダウン症の子どもマルコが部屋に1人取り残される。親の愛情を受けずに育ったマルコが主人公から受け取る愛情に心を開き、3人は家族になるために法廷でたたかう。しかし、ひと昔前の世間の同性愛への偏見が強く、マルコと2人は離れ離れとなり、育児放棄する母親のもとへ戻されたマルコは“家”を探し外を彷徨った末に1人、亡くなる。

あらすじを書いただけで怒りがこみ上げてくるが、40年前はこれが普通だったのだ。ここまで社会の意識が変わるにはどんな時代の流れがあったのか考察してみる。

そもそもなぜ偏見が生まれるの?

私は人の一種の防衛本能のような性質だと思っている。はじめての物事は不安を感じるように、免疫のないものを腫物扱いする。

自分と違うことが怖いんだ

この怖さが時に暴走し、言葉の暴力へと変わる。この怖さをどうにか出来れば偏見は無くなるのかもしれない。

Talk 2 / 経験は魔法の粉

怖さを無くすことは出来るのだろうか。答えはNoだ。子どもの頃を思い出してもらいたい。外に出て初めて見るものは怖くなかっただろうか。犬や猫、鳥に人、車など。人によって違うと思うが、私は鳩が怖かった。今も鳩は苦手だが怖いという気持ちとは少し違う。なぜ気持ちが変化したのだろうか。それは、学びの力である。

ここにきて、いや私は何も怖がらない子どもだった。そう主張したい人もいるだろう。それは、すでに刷り込みされているからである。子どものころ、本やおもちゃで物の名前を覚えた人も多いだろう。まあ、記憶はないのだが。だから、目の前に初めてのそれが現れても、その学びを通しているから“あぁ君知ってるよ”となり結果として怖くなかったにつながっているのではないだろうか。

人は皆、経験を通してその素性を知り怖くないと再認識する。経験はまるで魔法の粉である。

Talk 3 / 偏見はなくならない

では、魔法の粉を振りかけまくったら偏見は無くなる!と言いたいのだが、この偏見の根は奥深い。なぜなら、人生は初めての連続でこの先起こることを予想して予習をすることは不可能であるからだ。結局のところ、時代の流れとともに偏見は生まれるのだ。

40年前は同性愛、今は人種…そうやって時代は流れていく。ただこの映画を見て私が思ったのは40年前は偏見の塊だった同性愛が今は受け入れられつつある、これは凄いことだ。きっと色んな人が立ち向かってくれたからこそ今が創られてるんだと感じた。

今は同性愛者と言っても私は驚かない。カミングアウトする人も増えた。そうやって初めて出会う免疫のない異質に触れていくうちに意識は変わるのだ。

拒絶からの順応

ひとつの偏見を無くすためにはとにかく刷り込んでいくしかない。時間も労力もかかる。人の意識を変えることはそれだけ大変だということだ。

Talk 4 / 枠を壊す

そもそも人は感情に名付けすぎた。だから”偏見”という言葉が生まれた。そして、当たり前を作りすぎた。だから“異質”が目立ってしまう。枠に当てはめるのはもう辞めだ。

未知との遭遇を楽しむ

私はこれをやっていく。楽しもうという気持ちは怖さを紛らせてくれる。怖さが少なければ偏見につながりにくい。

はじまりはいつだって異質なものだ。

どんと未知との遭遇、異質を楽しむ。きっと未来は明るい。私は地球が生まれてから今までさまざまな偏見に立ち向かってくれた人々に感謝したい。アフリカンアメリカンの偏見もいつか無くなる日がきますように。






Ricky.









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