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かまいたち濱家の「服に優劣つけんなよ」が価値の本質を突いている件

ある日、何気なくかまいたちのYouTubeチャンネルを見ていた。
何の件(くだり)だったかも覚えていないが、仕事に着ていく服の話になり、二人のやり取りでこのようなものがあったのだ。

※この記事ではかまいたちの2人を敬称略で呼び捨てにしているが、それは便宜上そして親しみをこめてのことである。

山内「いつもは高価なビンテージTシャツを着ていくんだけど、その日は定価で売ってる4,000円くらいの漫画Tシャツを着て行ってたんだよね。」

濱家「なんやねん、『定価で売ってる4,000円くらいの漫画Tシャツ』って。あんまり服に優劣つけんなよ。」

このやり取り自体は他愛もない、ちょっとした面白ツッコミみたいな感じで流れたのだが、この「あんまり服に優劣つけんなよ」というツッコミが、私の中では「価値」という概念に対する、どストレートなアンチテーゼのように聞こえた。

「服に優劣をつける」とは

ここで濱家が言った「服に優劣をつける」とは、言わずもがなその金銭的価値によってのみ服を評価するという行為を指している。
そしてそれは(YouTubeではみんな笑っているが)私たちが日常で無意識に行っている価値判断である。

「この服はいくらだったからキチンとした場所に着ていきたい」
「この服は安いから捨ててもいい」

などの判断基準は全く違和感がないのではないだろうか。
しかしこれこそが濱家の言う「服に優劣をつける」ということである。
本来の服の役割を考えるとその価値は
・デザインが優れている(自分のセンスにあっている)こと
・機能的に優れている(暖かい/涼しいなど)こと
このふたつに集約されるはずだ。
しかし我々は無意識にそんなことはお構いなしに
「高いから」「安いから」
で服の評価をしてしまっていることが往々にしてある。

これ、本当はおかしいことだよね。
という強力な世の中の価値判断への批判が濱家のツッコミには含まれているのだ。

「あんまり」に含まれる意図

加えてこのツッコミに絶妙なニュアンスを加えているのが
「『あんまり』服に優劣つけんなよ」
の『あんまり』という部分である。

これは逆に言うと「多少は服に優劣をつけるのは仕方がない」という意味も持つことになる。
そう、このツッコミには(濱家本人も含めて)「多少は金銭的な価値をもってして服の価値を考えてしまうことは仕方がない」という現状の誤った価値基準がまかり通ってしまっていることへの許容という意味が含まれているのだ。

論理的に物事が破綻しているという批判だけであればただの屁理屈のように聞こえてしまうことがあるが、このいびつな現状への理解と許容を表す「あんまり」という言葉が聞いている人の共感をグッと強いものにしている。

翻ってこの
「あんまり服に優劣つけんなよ」
を意訳すると

「本質的に服というのは見た目と温度調節などの機能を持った道具である。それがアート同様に実態とはかけ離れた金銭的な価値を持ってしまっていることは商業の在り方を考えれば不思議なことではない。
しかし社会が豊かになりその商業が行き過ぎた故に、我々は本質的な物質の価値よりも情緒的な付加価値の大小でどっちが優れたプロダクトかを判断してしまっている。
俯瞰してみると、それは非常に本末転倒で滑稽なことではないだろうか。」

という意味であり、現代の商業社会が持つ「価値のつけ方」への壮大なアンチテーゼとなるのである。

服に優劣をつける私たち

これを自分なりに整理した時に、少なくとも私は非常に奥の深いテーマだと感じた。
私自身、ハイブランドやヴィンテージといったものに興味があるわけではないのだが、大なり小なり
「たまには良い服(=高い服)買ってみようかな」
「今日は安い服でいいか」
などと金銭的な価値のみで優劣をつけてしまっていることが多い。

ハイブランド、ヴィンテージといった部分で価値を出している商業を批判する気も全くないのだが、濱家の言う「優劣をつけすぎている(山内のような)人」がいるからこそそういったビジネスが成り立っているわけであり、周りにそういう人がいた場合に「たまにはいいけど、見失いすぎるなよ」と言いたくなるのは友達として、相方としての愛にあふれたツッコミに聞こえた。

そのようなアンチテーゼを絶妙なニュアンスとユーモアを持ってシンプルな日本語で即座に表現できる濱家のセンスが素晴らしいというのは言うまでもない。
だからこそこのお笑い大国においてトップクラスの人気者になっているわけだが、それを感覚的に「面白い」と感じられる繊細な日本人の感覚もまた誇るべきものであろう。

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