読書してみて考えた④小林秀雄と戦中派と 前編

「沈黙する知性」2020年に表紙買いして読んだ。著者(実際には対談)が内田樹、多分SPAではなくAERAの連載で名前は知っていた。
「知ることより考えること」③に書いた池田晶子の本。
どちらにも小林秀雄の名が出てきてずっと気になっていた。今回書店で私がたまたま手に取ったのは「学生との対話」。そんなのAmazonで一発じゃん、と言われそうだけど。

「知ることより考えること」
今回改めて、文中に小林秀雄の名を探すも見当たらず、私の記憶違いかと思ったが、ところがどっこい、あとがきに
きょうび「知る」とは、外的情報を(できるだけたくさん)取得することだとしか思われていない。取得するばかりでだれも自ら考えていない。(中略)小林秀雄の名講演、「信ずることと知ること」参照いただければ幸いです。
2006年9月 著者
とある。
なんという偶然!
「学生との対話」は講義「信ずることと知ること」が収録され2014年刊行(私は2017年の文庫本)された本だった。
講演が60~70年代だから、私にはなんだか難しいのだけど、それでも、クイズの謎解きのように、パズルのピースのように、冒頭の2冊を読んだときのモヤモヤがすっきりしたように思う。

「学生との対話」
1961年~1978年の学生、青年と交わした対話の記録。国民文化研究会の主催で「全国学生青年合宿教室」という場があったらしい。
今回調べたら、現在進行形。ただHPには神社がバーン、あら?右かしら?という感じ。逆に内田樹を検索したら、検索ワードに左翼ってある。
けど今回の3冊は対極でもないし、対立してもいないと思う。むしろ今の時代?右とか左とか、シロかクロかとか、はっきりしないといけない感じが心地悪い。忖度(懐かしい!)も悪いことなのかな?日本人特有の思いやりかもよ、悪い?

さて本題、「信ずることと知ること」より
今日科学の言っているあの経験というものは、合理的経験です。大体、私たちの経験の範囲というのは非常に大きいだろう。われわれの生活上の殆どすべての経験は合理的ではないですね。感情もイマジネーションも、道徳的な経験もいろんなものが入っています。それを、合理的経験だけに絞ったのです。だから科学は、人間の広大な経験を、きわめて小さい狭い道の中に閉じ込めたのです。

理系至上主義の夫に時折抱く違和感。
SNSや電子マネーやAIの空しさ。
あなたにオススメや、この宿をみた方が検索したのはこちら、に感じる気味悪さ。
高校生の息子が情報学部志望の少しのがっかり感。
これら全ては なんとなく小林秀雄の言っていること通じている気がしている。

そう言ってはみたものの、
医師4年目の夏のこと、新人は9月から各地の病院に赴任することになっていた(私は中途採用の新人)。教授から論文が配布された。確か「evidence based  medicine 」EBMについて。いよいよ医師として働きだす若造に、確証のない医療はするな、ということだろうと、当時の私は受け取った。そしてあれからずっと、私は科学的根拠優先を心がけて働いてきた。もしかするとこれから先、EBM第一の医者は疾病診断AIに凌駕されてしまうのかもしれないけれど…
世間的には、医は仁術などといわれるけれど、それでも私はやっぱり医者は科学者であったほうがまだ健全だろうと考えている。

つづきます。

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