見出し画像

「三原順の世界展」〜生涯と復活の軌跡〜マンガとファンの繋がりとは、こんなに凄いものなのかー

札幌市文化芸術交流センターSCARTS 「三原順の世界展〜生涯と復活の軌跡〜」と題した展覧会は、上記リンクの通り、開かれている。

「三原順」と聞いて、すぐにピンとくるのは、今きっと50代〜60代で、若い頃によく少女マンガを読んでいた人だろう。1974年から少女マンガ雑誌「花とゆめ」に掲載され、読者から熱狂的な支持を受けた『はみだしっ子シリーズ』を代表作に持ち、札幌在住のマンガ家だった三原さんは、1995年、42歳の若さで亡くなる。

もう26年も経っている。一般的には知名度が高いとは言えないし、90年代以降に生まれた世代も、余程のマンガ好きでなければ知らないだろう。二度と新作は描かれないマンガ家の名が、いつか忘れられていくのは、自然な流れだ。しかし、三原順の場合は、ちょっと事情が違う。時代が遠く去り、亡くなってもなお、決して忘れられることのないマンガ家ー

わたしの三原さんへの印象は、ずっと変わらない。ガリガリと強い、黒黒としたペンタッチの線が、意図を持ってみっしりと連なる画面の、そのタッチの強さと密度と意図の故に、画面が手招くー世界ーへ入れる者と入れない者を選ぶ。

扉を開く鍵を持たされるか持たされないか、入場する切符を持てるか持てないか。それは、どこの誰にしても、そこの「あなた」であり「わたし」が、三原マンガに出会った瞬間に、決まったはずだ。

わたしは、選ばれなかった一人である。

1974年、当時は、12歳。「花とゆめ」は、中学になって読み始めたから1975年か「はみだしっ子」の人気も高まったころか、自分で覚えているのは「トーマの心臓の真似だ」と憤慨した記憶だ。

三原ファンの皆さん、いやいや全てのマンガファンには、くれぐれも誤解なきよう念を押しておきますが(文体も変更して)当時の子どもの浅はかな思い込みです。その頃のわたしは、まさしくも熱狂的萩尾望都信者で、中でも『トーマの心臓』が大好きで、中でもオスカー・ライザーという登場人物が大好きでした。

図版をあげたいところですが、許可がめんどくさいので、自分で14歳の時に描いたオスカーの絵を上げてみます。

スクリーンショット 2021-08-05 14.43.43

油絵です。結構上手でしょ? ってそういう話ではなく。

スクリーンショット 2021-08-05 15.09.20

「三原順の世界展」図録の表紙から 向かって右端が、「はみだっしっ子」のグレアムです。髪型が似てますね。このイラストでは、わかりませんが、わたしが初めてみた彼は黒いジャケットに黒いタイをしていて、ますます似ていると思った。実は、人物としてもオスカーとグレアムは似てるところがあるんですが。それはとにかく置いておいて。

もちろん真実として『はみだしっ子』シリーズは、『トーマの心臓』の真似などではなく、しかし同時代の重要なマンガ作品だった。にも関わらず、13歳のわたしは、13歳の思春期少女らしく、ただひたすらの思い込みによって『はみだしっ子』を読まなかった。『はみだしっ子』人気沸騰ぶりに勝手に嫉妬の炎を燃やして。

にも関わらず…そう、当時を思い出しても、わたしもわかっていた。『はみだしっ子』は、本当は読むべきマンガだと。でも読めなかった。一度、扉を閉じたのは、自分だから。手を触れてはいけないような、不文律を何故か、感じていた。そして、今でも思う。その感覚は、間違ってなかったと。

『はみだしっ子』を改めて読んだのは、40近くになってからだ。三原さんは、すでに亡くなっていた。マンガ評論か紹介の仕事だったか、三原マンガを読む必要に迫られて、読んだ。うーむこんなマンガだったのか、想像してたのと全然違う。絵が綺麗だなあ。でも理屈っぽいなあ、描くの大変だっただろうな。三原さんは、一体どんな人だったのだろうか…。

『son's』シリーズを読み、遺作となった『ビリーの森ジョデイの樹』も読んだ。三原マンガを解説するには、あまりに乏しいにしても、やっぱりわたしには、わからなかった。理解が出来ないのではなくて、ちゃんと読めるし、話も内容も理解できるけれど、ー世界ーに入っていけない、のだ。

マンガを読む人は、皆わかるはずだ。その世界に入っていけるか、いけないかの感覚を。そして、その境目は、作品の側にあるというよりも、読む側にある。マンガ世界は、基本原則的に出来上がってさえいれば、読む者にすべて開かれてある。オープンにされている。誰が読んでも読めるように出来ている。三原マンガだとて、そういう構造になっている。誰だって「入っていける」ように出来ているのだ。でも、わたしは「入っていけない」と壁を感じてしまう。

読者を選ぶーと言えば、偉そうな感じがして嫌だけれど、読者が「必要とする」かしないか、だと言えば、違うだろう。

三原マンガは、そういうマンガだと思う。とても強く「必要とする」読者が、やっぱり、とても強く、且つ深く、引き込まれていく世界ー

『三原順の世界展〜生涯と復活の軌跡〜』は、三原さんが執筆していた出版社の企画でも札幌市の企画でもない、たった二人の三原順ファンが、札幌市文化芸術交流センターSCARTの公募事業に応募し、通過させた企画展である。ムーンライティングの名で、これまでも東京での三原順展を成功させてこられた。合田雅代さんと立野昧さんは、驚くべきことに三原順を媒介にして知り合い、ご結婚され、そして故あって、多くの三原さんの遺品を受け継ぐ立場となり、こつこつと活動を続けてこられた。

今回、念願の作家が暮らした札幌で立ち上げられた『三原順の世界展〜』は、三原順とその作品への愛ーだけで出来上がっているような、本当に素晴らしい展覧会だが、現実の物事は、愛などという曖昧模糊によってでは、決して成り立たない。

三原マンガを今ある世界に伝えるために、必要なことは何か。残された6000枚以上に重なる原稿を整理し、番号をつけ、カラー原稿と白黒原稿をより分け、データにし、グッズを集め、それもまた年代ごとに整理し、説明書きをし、ただひたすらに、こつこつと、こつこつと。積み重ね続けられるー具体ーによってのみ。この計り知れないー愛ーは、見る者の胸に届く。

わたしは、思った。この展覧会に満ちる、細やかな(言い方を変えれば執拗なまでの)「三原順の世界に迫る」出来る限り、誠実に、出来る限り正しく、出来うる限りーその気持ちのままにー世界に手を届かせようとする思い(言い方を変えれば執念のような)あり様は。

三原順の描く画面、それ自体に限りなく近いのではないのか。強い黒黒としたペンタッチの細やかな、執拗なまでに探られた表現方法、出来うる限り誠実な、執念のごとき、人の心理と真実と世界の真理に迫ろうとし、見えない何かと戦い続けた、たった一人のマンガ家の。

ここまで作家の世界を胸に抱き、愛そうとし、愛し続け、他者へと届け続けようと出来る。ファンとは、ファンであることとは、なんと凄い、なんたる凄いものだろうか…。ほんとファンて凄いよ…。

全くもって良い読者でもなんでもないわたしは、圧倒されるのみだったが、この展覧会は、三原マンガの真髄を伝えてくれていると思う。


「そもそも私がマンガを描き始めたのは、多分、私が、昔から、親であれ、兄達であれ、他の人の気持ちを「わかった」と思えたことがないせいだと思います」(三原順の世界展ー図録 P5より)

「わかった」と思えないから、マンガを描くとは、いつか「わかった」と思える時があるはずだ、あるいは、あるかもしれないというー希望ーに他ならない。『はみだしっ子』が、あるいは、三原順が、もがき続けながらも描こうとしていたのは、そのー希望ーを見つけようとすることを、諦めないー世界ーだったのではないだろうか。

だからこそ、今もなお、求める者は、後を絶たない。

この絶望的な世界で。たった一雫の希望を 胸に抱く。

たったそれだけで、生きていけるーように。彼女のマンガはあったのだと。


『はみだしっ子』に、触れてはいけない不文律を、感じ取った13歳のわたしもまた。同じ時を生き延びてきた。つくづくと、生きてきたんだなあと、思いました。














この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?