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死を想うとき、見つけるのは、生きていることばかりー元阪神タイガース・横田慎太郎さんの訃報に触れて。「愛」を想う日ー

https://www.daily.co.jp/gossip/2023/07/18/0016600785.shtml

 横田くん、亡くなってしまったのか…。
阪神タイガース横田慎太郎選手は、多くのファンに「横田くん」と呼ばれていた。
初めてプレーする姿を見たのは、いつごろだったか。多分未来のレギュラー候補で一軍で活躍しはじめたころで「糸井二世」とも呼ばれていた。

体が大きいスラッガー、猪突猛進型、あまり器用なタイプでない。そして大真面目でちょっと天然が入っている。プレイスタイルとともに「なるほど嘉男系」なのねと納得したのを覚えている。

 だけど、何よりとにかく
「可愛らしい子だなあ」が、第一印象だった。
そういうと語弊があるだろうけど、なんと言えばいいのか。
WBCの時に栗山英樹監督がアメリカから連れてきたヌートバーのことを
「会えば、誰もが絶対好きになっちゃう」
と紹介していたような。

一眼見たときから「好きになる」。
見てるとなんともいえない、幸せ感が湧いてくるんだよ。横田くんは。

 阪神タイガースのファンでもないのに「横田くん」は、テレビで見かければ応援したい選手になっていた。だから彼が脳腫瘍で闘病し、引退に至ったときには、やっぱりみんなと同じように「野球の神様はどうしてこんなに残酷なの」と悔やむしかなかった。

 引退後に一時寛解し、ドキュメンタリやワイドショーで様子を見たり、記事を読んだりしていた。昨年、放映された間宮祥太朗主演のドラマもちゃんと録画して見た。
実物も出演していたが、相当に痩せていて腫瘍再発の厳しさを感じさせた。
本当にどうして…病気というのは、誰もに、年齢、仕事、人格や生き方に関わらず、ある意味平等に、ふいに襲い掛かるが、「どうして彼なのか」「どうしてわたしなのか」不平等だとしか思えない苦しみがある。

子を産み育て、暮らした親ならなおさらだ。
病気の子どもに寄り添うことは、病気の子どもと同じくらい、いや場合によってはより以上に苦しい、辛い日常だ。
日常になってしまう、そのこと自体が。
苦しむ者の側にいるのは、想像以上に苦しいものだから。目を背けず、逃げずにいるには、覚悟(あるいは諦め)が必要だから。
それでも最後まで、一緒にいるのだと。

「愛」というものが、本当に、この世にあるとしたら。
横田くんは、愛の使者のようでもある。
ごくまれに、そういう存在はいる。

親が子を愛することを許す。友が友に愛されることを許す。
人が人を愛してもいいんだなと、世界のどこかに「愛はある」と信じられる。なぜかしら知らせる、無意識の存在自体で。

そのことだけで、どれだけの人が救われるのか。
そうなのだった。
「天使みたいだ」
って、思ったんだよね。初めて見た時に。
おっきな汗まみれの男の子(と言ったら失礼ですが、そう言いたくなるのでした)なのに。おかしいけど。

天使だから天に帰ってしまったのか。
いや、もちろん彼は、現実を生きた一人の人。
この世での苦しみを一身に受けとめて、最後まで生きる。
生きたからこそ、解放されて自由になる。
死と生が別れても。
生きている側は、彼の生きた時間、自分の記憶の交錯を再現させる。
残されるのは、どちらにせよ
「生きている」事柄だ。決して「死の世界」では、あり得ない。

ありがとうございました。
横田慎太郎さんのご冥福を心からお祈りします。









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