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【制作記録】鳥栖市重要文化財SL268号機関車/Webページ制作

故郷の鳥栖をテーマにWebページをサンプルとして制作しました。
全国には、鳥栖どころか佐賀県がどこにあるかもご存知ない方も多いと思います。
オンラインで全国の方と交流することも多くなりましたが、せめて佐賀県は九州の中にあることだけでも知っていただけたらと思います(笑)

掲載期間:2021年4月(現在は閲覧できません)
担当:デザイン・制作
使用ツール:Adobe Photoshop、Unbounce

ページ内の鳥栖市の説明

🎨デザインについて

  • 国内に2両しか現存していない230形機関車のうち1両が鳥栖駅の東側に展示してあります。駅のホームからも見えますが、無料で間近で見ることができます。鉄道が好きな方は、是非ご覧になって欲しいと思い、紹介しました。

  • 機関車のことも併せて、鳥栖のことや鳥栖駅についても説明しています。

鳥栖駅の説明

💻制作物語

Unbounce という簡単にランディングページをつくれるビルダーのサービスを利用して作りました。
海外では人気らしいのですが、日本円で月に2万円前後なので、利用するのを断念しました(笑)
このページの制作に取り掛かって、地元のことで知らなかったことも沢山ありました。

鳥栖駅の名物の紹介

🚂SL機関車への思い~原爆で早逝した技術者

SL268号機関車は、私が子供の頃は鳥栖市役所の敷地内に展示してありました。その頃は、自由に車両の中に入って遊ぶこともできていました。
クラスの半数以上が家族や親戚に国鉄職員や国鉄関連会社に勤務している人がいる、というような時代でした。

私の父方の祖父は、国鉄職員で蒸気機関車の整備士でした。
なので、蒸気機関車を見ると、もしかしたら祖父が触れたことがある車両かもしれない、と思うのです。

戦争中は広島の暁第6140部隊太田隊に所属していました。原爆投下直後、技術者だったために水道工事に携わったそうです。
広島市水道局の堀野九郎さんが大怪我を負いながらもポンプを修理して、水道復旧に尽力された話は有名です。
でも、焼け野原で水道工事を続けた祖父のことを証明する人がいません。

水道の復旧工事をする為に、遺体を退ける必要がありました。
その時、亡くなっていると思っていた女性が、いきなり祖父の足首を掴み、「兵隊さん、水をください」と懇願しました。
ワンピースの柄のみが身体に残った若い女性だったそうです。水をあげたくも、自分達も飲む水がありませんでした。
女性は最後の力を振り絞ったのでしょう。その女性はすぐにこと切れたそうです。
ところが、祖父の足をしっかり掴んだその手は、自分で外すことが出来ず、男3人くらいが掛かってやっと外れたのだそうです。

終戦後、祖父は、広島から満員電車で鳥栖へ帰る際、持っていた褌7本を全て汚してしまうほど下痢が止まらなかったそうです。既に原爆症に侵されていたのでしょう。
1946年(昭和21年)の暮れ、高熱で仕事を休み寝込んでいたところ、
「あなたじゃないとできない(機械の)修理だ」
と、同僚の方が自転車で迎えに来られました。自転車の荷台に乗せられて、職場に連れて行かれ、夕方まで仕事をしたのだそうです。
祖父は手がとても器用で、みんなに頼られる技術者だったそうです。
その数日後、年明けの1947年(昭和22年)1月5日の朝方、祖父は息を引き取りました。享年34歳でした。

祖父が広島から祖母に宛てたはがき

祖父は、確かに原爆投下時には広島にいて、被爆して1年半後に亡くなりました。
でも、それを証明する人がいません。
祖父が亡くなって20年以上経った頃、祖母が佐賀県庁に祖父が広島から出した手紙の束を持って、被爆者の認定の手続きに行きました。でも、本人が既に他界した後で、手紙だけでは証明できない、と断られた挙句、
「金が欲しかっちゃろが!」
とまで言われたそうです。
原爆投下時に広島にいたことを証明する人間を連れて来いと。

広島も長崎も祖父のように慰霊碑に名前を刻まれていない方が沢山いらっしゃるのでしょうね。

祖父が目の当たりにし、身体全体で感じた「ヒロシマ」のあの日の惨劇。
祖母や母から伝えられた話は、子ども達に語り継いでいきたいと思っています。

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