ご飯に味噌汁、漬物。
『ご飯を炊いて、菜(おかず)も兼ねるような具だくさんの味噌汁を作ればよい』
料理研究家として日本の伝統的な食の知恵に驚き、知れば知るほど日本人の感性の豊かさに驚き、現代社会に家庭料理の変化を感じ、未来のことを考えるうちに一汁一菜でよいという考えに至り、
『一汁一菜でよいという提案』こそが日本の家庭料理の最善の道と考えるようになったという土井善晴先生の本を読みました。
『家庭にあるべきおいしいものは、穏やかで地味なもの。切り干し大根やひじきのような「普通においしい」なんの違和感もない、心地よい安心感。そして、少し幸せな気持ちになれるもの』
『食事を一汁一菜にすることで、食事作りにストレスはなくなる。それだけで精神的にも随分とらくになるその上で、自由にのびのびできる余暇という時間を作ることで、それによって楽しみができて、心に余裕が生まれてくる』とおっしゃいます。
『日常の料理では手をかける必要はありません。家庭料理は手をかけないもの。それがおいしさにつながるのです。
そして、素材を生かすには、シンプルに料理することがいちばんだ』
とおっしゃる土井先生の主張と同じようなことを
やはりこの前読んだ日本料理界で有名な分とく山の野崎洋光さんも著書『おいしいごはんの勘どころ』の中でおっしゃっていました。
庶民が手のかかるご馳走を喜ぶのは、高価なものへの憧れ。
ときに分不相応でもある憧れは、場違いな場面に現れて、ハレとケを混同する現代の私たちの生活は、まるでお公家様と庶民が一緒に暮らすようなアンバランスさをもっている。
手のかかった暮らしに憧れ、高価なものが良いと信じて、一方で当たり前にやるべきことを嫌うそこに矛盾と無理が起こってくるとも『一汁一菜でよいという提案』の中で土井先生はおっしゃいます。
料理することは人間として生きるためには欠かせないものだが、今、私たちのいる現代の日本では必ずしも料理をしなくても、できあがった料理を手軽に買い求めて食べることもできる。
同時に、料理したくても時間が取れないという問題や、働いても満足に食べられないという貧困の問題など、これはもう社会システムのほうの問題なのではないかということも起こっている。
人口の一つかみほどしかいないお金持ちにとっては良いことでも、そこにはいないほとんどの人々や、次世代の子どもたちにとっての社会問題にまで視点を広げて、食事の根源的な意味を考えようとしているのがこの本です。
『少なくとも、人間にとって人生の大切な時期に手作りの良い食事と関わることが重要だ。そして自分自身を大切にしたいと思うなら、丁寧に生きること』
『一人暮らしでも食事をきちんとして欲しい。そうすることで自分の暮らしに戒めを与え、良き習慣という秩序がついてくる』
『急いでつくるおかずはいつもの定番、いつも同じものでよい』
『味噌汁にはなにを入れてもいい。基本や中身がきちんとしているならば、表面を取り繕わない味噌汁でいい』
この本の中に登場する実際に土井先生が普段作り、食べてきたという味噌汁の具にはとても大らかな自由さがあります。
私たちは生きている限り「食べる」ことから逃れられない。離れることなく常に関わる「食べる」は、どう生きるのかという姿勢に直結し、人生の土台や背景となり、人の姿を明らかにする。
「食べることは生きること」と言われるのはそのためで、間違いなく
『良く食べることは良く生きること』
なのだと説く先生の考えに、私はなるほどなぁと思いました。
たしかに私たちの周りには食べ物があふれるようにあって、選ばなければ食べることには困ることはないし、面倒なときは食べなくてもいい。
食品の良し悪しを気に留めなくても生きられるし、何も考えなければ別に問題もないし、人に迷惑をかけることもない。
好きなものばかり食べることも何も悪いこととは言えない。
でも、たぶん食べるということはとても大切なことだと、だれもがすでにその身体でわかっていることだと思う。
この本では一汁一菜が理論的になぜよいかの説明とともに、一汁一菜の実践と考え方がていねいに紹介されています。
『一汁一菜が基本であると考えれば、何も難しいことはない』
『一汁一菜は、現代に生きる私たちにも応用できる最適な食事。
おかずをわざわざ考えなくても、ご飯と味噌汁を作り、味噌汁を具だくさんにすればそれは充分におかずを兼ねるものになる』
『魚、豆腐、野菜、海藻などを時々に応じて汁に入れ、発酵食品の味噌で味つける。肉を少量入れてもいい。
血肉骨を作るタンパク質や脂質、身体の機能を整えるビタミン、ミネラル(カルシウムなど)を含む食材を具とする』
『基本はご飯と味噌汁さえあればよいと考える。これでしっかりバランスの良い食事を摂ることができるが、必ずしも和食しか食べてはいけないということではない』
この提案には『一汁一菜というスタイル(考え方)』が基本であればよいという柔軟さもあります。
『持続可能な一汁一菜のかたちをいつも頭において、何をどう食べるのかを決めればいい』
『一汁一菜というスタイルを守りながら、和洋折衷でよい』
『家では「あるものを食べる」ということでよい』
『一汁一菜だからといって、ご馳走を食べないと決めるわけではない。いろいろな日があるわけで、それでよい。
お肉料理もサラダも食べたいなら、休みの日はゆっくりしてご馳走を作って楽しめばよい』
『家庭料理がいつもいつもご馳走である必要も、いつもいつもおいしい必要もない。上手でも下手でも、とにかくできることを一生懸命することがいちばん』
結びに代えてというあとがきのところで土井先生は、この本で
『一汁一菜でいいんだぞ、それだけでいいんだぞ』
って言いたかったとおっしゃっています。
私もふだんのごはんは「普通に美味しい」旬の野菜を使った一汁一菜のごはんをベースに今日からしたいと思いました。