現代人はまだ「多様性」の広さにとまどっている ~「クマの恋」青海エイミー~
※ 物語の内容に一部触れています
この物語を読んでいた時にふと、ほんの1ヶ月ほど前に、どういう流れだったかは忘れたのですが20代の同僚が言っていた言葉を思い出しました。
「学校の制服というのは、あえてみんな同じ格好にして、その子の家庭の経済状況とかが露骨に現れないようにする為のものですからね。」
それを聞いて「なるほど」と妙に感心しました。言われてみれば制服に限らず、髪型や持ち物、行動にいたるまで、校則というものは、同じ年齢の成長途上にある子供たちをできる限り「平等」にするのが目的なのでしょう。
その「平等」の思想が逆に、がんばっても皆と同じようにはできない人、どうしても合わせられない人を異質なものに見せてしまい、いじめや差別につながるという矛盾も抱えているのですが、この「平等」の思想はいわば学校という組織の原理原則であり良心なのだと思います。
そのような学校の現場において、ある面では相反する「多様性の社会」への理解と適応を求められるのはとまどいも非常に大きいと推察します。
個々人の心と身体の「性」に関することがらについては、我が国においては学校現場のみならず世間一般がようやく理解への入り口にはたどり着けたかという実感があります。
そこにいきなり、「クマの着ぐるみを着る」という新たな「個別事情」を突きつけられた教育現場はどうすれば良いのか?
まるでナンセンスギャグ漫画の1ページ目のような光景であり、「何の悪ふざけか!」と反射的に怒鳴りつけてしまった教師がいたとしても誰が責められましょうか。2023年現代の感覚でいけばまだ、それが「常識」だと思います。
ですがあと数年もしないうちに、上記のような教師の態度は教育者にあるまじき差別的な態度にあたるかもしれません。「多様性」とは究極的にそういうことなのではないでしょうか。
15話目にある校長と保健の先生の話は実に生々しいと思います。これこそが、理解が追いついていないまま精いっぱい対処しようとした人たちの結果なのでしょう。
そういう意味において、クマの着ぐるみを着た客がハチミツを注文するのを待ち構えていたコーヒーショップの店員こそ、「クマ」という個性を尊重していたのかも知れません。
だが悲しいことに、目の前にいる「クマ」は、店員が思っているような見た目通りの一貫した「クマ」ではなかったのです。多様性の社会はあまりにも複雑です。
そして読者の多くはこう思っているでしょう。
自分の知らないところで渦中の人(濡れ衣)となった「2年3組の高木」はその後、どうなったのだろう、と。