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ケイパビリティアプローチと性産業


はじめに

下記に掲載されているレポートは、大学の期末レポート課題にて提出したものであり、本来論壇に載せられるレベルではないのですが、供給側(多くの場合女性)ばかりに焦点が当てられがちな売買春や性表現のニーズの側面に敢えて焦点を当てることは一定の意義があるように思われるので、掲載しておくことにしました。
本noteでは、多少加筆修正した上で大まかに要約しました。


また、本稿は下記のブログを土台とし、ケイパビリティ・アプローチによる性風俗や性表現の擁護を試みるものですが、セックスバウチャーのような積極的自由まで主張するつもりはなく、あくまで売買春や性表現の完全合法化という消極的自由のみを支持します。(後述)

セックスワークを原則自由化した上で、セックスバウチャーを配ればよいのではないか。

下記ブログより

「RHR≠SRHR」?

リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(RHR)という概念はすでに世界的に承認されており、SDGs(持続可能な開発目標)のターゲット目標の一つとされたことは記憶に新しい。
この概念は、女性やカップルを念頭に置いた生殖に関わる包括的な権利概念を指すものである。
これに基づけば、緊急避妊薬の購入制限・人工中絶に対する種々の制約・その他の抑圧的な人口政策は明確な権利侵害と言える。

マーサ・ヌスバウムは、すべての政府が保障すべき「ケイパビリティの中心的リスト」の一つに上記のリプロダクティブ・ヘルス/ライツ(RHR)を明記している。

一方で、そこにセクシュアリティに関わる権利を加えるべきか、明確に区別して切り離すべきかという問題が存在する。
実際、金銭を対価に生殖を目的としない性行為を自由に行う権利と、いつどこで誰と生殖を行うかを決定する権利を同等の権利として取り扱うことに何らかの抵抗や違和感を持つ人々はかなりの割合で存在する。

性規範というイデオロギー

この点に関して、文化人類学者のゲイル・ルービンは『性を考える-セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書』にて、セクシュアリティのヒエラルキー構造の存在を指摘している。

周縁化されるセクシュアリティ

異性間の既婚者やカップルによる愛情の伴う性行為が称揚され、自慰行為はその代替物でしかなく、乱交や肛門性交などは軽蔑されている。
そして、小児性愛や死体性愛は最も抑圧されている。
過去から現在にかけて、特定のセクシュアリティがそのセクシュアリティであることのみを理由として、違法化た事例も多くみられる。

このようなヒエラルキーの存在と、それに基づく、やってはいけない、恥じるべきである、隠さなければならないといった規範を我々は感覚的に認識しているし、日常的に再生産しているのである。

しかしながら、善良なセクシュアリティと悪徳なセクシュアリティを区分する合理的な理論的根拠はほとんど見受けられないように思える。
(当然ながら、付随的な悪さは存在する)
それゆえ、ゲイル・ルービンは次のように主張する。

このような性的道徳観には、真の倫理観よりはむしろ人種差別のイデオロギーと共通するところがある。

池上善彦編『現代思想臨時創刊号 第二十五巻第六号』青土社(1997)P109

RHRとSRHRを明確に区別し、どちらかのみを中心的機能とみなすことは明らかな誤りである。
また、冒頭で述べたようなセックスバウチャーのような積極的自由は特定のセクシュアリティを称揚し、セクシュアリティのヒエラルキー構造を再生産する可能性があるという点において不適切である。

憂慮すべき論点

強制性や加害性を持ち、人間の尊厳を毀損するセクシュアリティについて

選択決定の自由とニーズの充足を手段の自由を混同してはならない。
中心的機能を保障する手段には選択の余地が残されており、それらは各国に委ねられている。
その上で、性風俗やポルノグラフィを手段として提唱している。

売買春は性奴隷制ではないか

自らの労働力商品しか持ちえない労働者の存在は性産業に限られたものではないため、売買春のみを劣位に置くのは差別的である。
売買春に特有の暴力や搾取の存在は事実だが、完全合法化した上でそれらを対処することは可能である。

放棄できない性的自由の存在

売春を代表とする性の商品化は、個人の人格とは切り離すことのできないはずの性的自由を手放すものであり、本人の同意の有無にかかわらず問題視される。
しかしながら、性的自由の放棄は夫婦やカップル間における不貞行為の禁止にもみられる現象であり、これらの質的な差異はほとんどないように思われる。
そもそもこのようなパターナリスティックな制約は、断食を望む人に無理やり食事をとらせるようなものであり、全く正当性がない。

性犯罪との関連性

本稿は、売買春やポルノグラフィの存在と性犯罪の因果関係には立ち入らないが、すでに多くの先行研究が出ているので参照されたい。
noteにもいくつか上がっていました。

性的対象化と性的モノ化の懸念

性的対象化というものは、クロード・レヴィ・ストロースが著書『親族の基本構造』で指摘したような、女性の持つ生来的な交換価値に起因するものであり、性的対象化を最も強く推し進めているのは性の商品化ではなく、自由恋愛である。

また、類似概念としての性的モノ化も度々言及されるが、人を性的満足を満たすための道具のように扱うことも、資本主義下における物象化も、人の腕を枕のようにして扱うことも同じ意味での人間の手段化や道具化であって、文脈や心理的関係に依存する曖昧な概念であると言える。

問題は、性的対象化や性的モノ化そのものではなく、女性の性的対象物としての側面が過剰に強調されることで、それ以外の諸側面を捨象するような観念が社会に蔓延することである。

すなわち、強制の排除や離脱が困難な社会的風潮や文化的構造たる性的対象化や性的モノ化をどの程度まで許容するのかというのが主眼に置かれるべきであり、ここまで記述してきたあらゆる論点はここに集約されることとなる。

かの有名な「宇崎ちゃん献血ポスター騒動」も同様の論点に帰着している。

個人的まとめ

では、性的対象化や性的モノ化の許容限度のイニシアチブが女性側にあるべきかと言えば全くそうは思わない。
もちろん男性に帰属するべきものでもない。

客観的な基準を求めようとすると、性犯罪の発生件数やジェンダーギャップ指数を足掛かりに中心的ケイパビリティの侵害が起こらない程度を探るほかないように思われる。

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