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プロダクション・ノオトー「メタバース編」(7)

 前回は「メタバース社会というーテレビやラジオとかの個別メディア議論ではないー総合的な現実社会を拡張するメディアとは何かが、浮かび上がってきます」で書き終えました。
 さて、ここから書き進めたいのですが、現状について少し考えたいと思います。振り返れば、1992年にWindows 3.1が発売され、2001年にFTTHやCATVや無線通信でインターネット・サービスが始まり、現在に続くWWWの世界観が広まり、今では社会の重要なインフラとなりました。
 この20年あまり、このWWWというインフラを基盤に様々なウェブサイトやアプリ(私的にはデジタル化した紙芝居的に見えます)が登場しましたし、FacebookやTwitterのようなSNSも広がりました。
 このWWWというインフラを基盤とし、そこで醸成される文化を語りたい方々が数多く現れ、「ジェネレーション◯◯」という語り口が定着したように思いますが、一方で、天邪鬼な私は冷徹に彼らの主張を観察してきました。
 こう言うと失礼かもしれませんが、私も含めて、利用者は「玩具を与えられたサル」なのだと思っています。
 例えば、エドモンド・モリス著「裸のサル:動物学的人間像」の視点に立てば、WWWというインフラを基盤とした様々なウェブサイトやアプリを愉しみ、ホッピングすることが面白く、裸のサルとしてホッホと叫び、慣れようと時間を費やしている姿だけを観察し「ジェネレーション◯◯」と語り、帰納法を使って一般論とするマジックを使って煽っているように見えます。ちなみに、帰納法とは、多くの具体例に共通する点をまとめて人々に納得させると言えば良いかもしれません。
 サッカー競技場という限定した場所で数多くの質問をして得られた回答を、サッカー競技場を含む街や国の一般論として語るようなものだと思います。
 さらに、ヨハン・ホイジンガ著「ホモ・ルーデンス」やロジェ・カイヨワ著「遊びと人間」などで描かれた「人間は遊ぶ存在である」という視点で、捉えると、私たちは未だに現状に慣れ親しむために「遊んで」いるのだと思われます。
 もちろん必死になって遊ぶことはヒトにとり重要なことで、そこから様々な文化が形成されてきた歴史がありますから、私が嘲笑しているわけではないことをご理解ください。ただ、上述したように、帰納法的な考え方でWWWから生まれつつあるものを捉えることは、歪んだ考えだと思っています。
 この20年あまりでWWWが地球全体に広く定着し、玩具を与えられたサルとして、興奮気味にPCやスマホを利用している私たちがいる、その視点で、メタバースというものを考えたいと思っています。(続く)中嶋雷太

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