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私の美(48)「十二神将。新薬師寺にて」

 2015年ごろ、ある古い仏像の記憶が薄らと突然蘇りました。
 幼いころの私の心をかなり激しく打った仏像の姿のはずですが、それがどこのお寺のどんな仏像なのか、最初ははっきりしませんでした。それは、視力0.1の人物が数十メートルほど遠くにある彫像を見るような、漠とした画像イメージでした。京都に生まれ育ったので、神社仏閣は身近に山ほどあり、抹香臭い幼少青年期を過ごしていたこともあり、有名無名の仏像に親しんではいたので、その謎の仏像がどこの仏像なのかをピンポイントで思い出すのは至難の業でした。しかも、記憶のなかの仏像はかなりボヤけていました。
 25歳のころ、ある出版社の書籍編集者として仏教の歴史の本を副担当した経緯があり、それなりの仏教関連本が書棚に眠っていたので、時間があればあれやこれやと謎の仏像を探していました。やがて、そのあれやこれやの作業中に、そのボヤけた仏像が立像で手に剣を携えているのを思い出し、「そうだ!」と新薬師寺の写真本を手にとりページをめくってゆくと…ありました。「幼いころの私の心をかなり激しく打った仏像の姿」とは、十二神将でした。ピントを微妙に合わせ続け、およそ半年を経て、ピタリと私の心の像のピントが合ったわけです。
 十二神将とは、薬師如来を守る闘う仏様で、薬師如来の十二の大願に合わせ、昼夜の十二の時、十二の月、そして十二の方角を守っているとのことです。古くは中国の敦煌壁画にも描かれているらしく、日本では、八世紀に作られた、奈良にある新薬師寺の十二神将像が最古のものとして、そしてその造形美も合わせて有名だとされています。
 さて、「幼いころの私の心をかなり激しく打った仏像の姿」は十二神将像であることは間違いないのですが、それがどこのお寺の十二神将像だったのか…。幼いころの記憶を化石調査のように穿っていくと、幼稚園のころに奈良へ行ったことがあるという亡母の話を思い出しました。奈良の大仏さんのところで、東京オリンピックにやってきたソ連の水泳選手たちと出会った亡母の話が蘇り、どうやら私は亡母に連れられ、東大寺を訪ねたはずだというのを確信しました。
 それから数年が経った2019年の2月、京都へ墓参に帰る機会があり、奈良を訪れ「もしかすると…」と淡い期待を胸に抱いて新薬師寺へと向かいました。
 観光客もまばらな季節に、東大寺から南東へと2キロほどの道を散策していると、深い淵に眠っていた幼いころの記憶が、ぽつりぽつりと蘇ってきました。閑散とした小道の朽ちかけた土壁や思いのほか小さな作りの新薬師寺の門構えなどが、後付けではなく、幼稚園児だったころの映像として蘇ってきました。
 新薬師寺に到着し、暗いお堂に入りしばらくすると、暗さに慣れた視界にあの十二神将像が立ち現れてきました。「これだ!」と静かに歓喜した私はしゃがみ込みました。幼いころの視点でもう一度十二神将像を見つめてみようと考えたからです。そして、そこに、古い仏像の記憶にピタリと合う十二神将像が鎮座していました。
 この目の前に鎮座する十二神将像が、幼いころの私の心を、何故、かなり激しく打ったのかは分かりませんし、今さら言葉を屈指して分かろうとするのは間違いだと本能が教えていました。
 個人が感じる「美」とは、その時々の心のあり様がまずあり、その瞬間瞬間にその心の有り様を激しく揺るがすものではないかと思っています。望洋とした観光客としてルーブル美術館や大英博物館を訪れても、何も心に刺さらないことがしばしばあります。それは、その時々の私の心の有り様に突き刺さらぬ美術品を見ているだけなのだろうと思います。
 私の書斎に、新薬師寺で購入した小さな十二神将像の一体、宮毘羅大将を飾っています。未だに心を激しく揺るがせた理由は謎ですが、それはそれで良いはずです。ただ、いつの日か、幼稚園児だった私の心をかなり激しく打った理由が分かればと願うばかりです。おそらく、そこに私の「美」体験の原初的な感覚が隠れているような気がするからです。中嶋雷太

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