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私の美(62)「精緻でもヘタウマでもない、心象風景にある絵」

 これまで20作品ほど物語をペーパーバックや電子版で発行し、今夏からは英米欧で英語版("Yellow Rose's Tales", "Ghost Stories in Modern Japan"...etc.)が発行され、それに合わせてティーザーを製作してYouTubeに投稿し始めました。(https://youtube.com/@raitanakashimascinema8546)
  これは、いわゆる昔とった杵柄で、ピアノやギターなどを演奏してきたのもあり、前職(WOWOW)ではプロデューサーなどの立場で映画やテレビ番組の製作にも関わってきたのもあり、ま、なんとかそれなりのクオリティは担保できているかと思っています。もちろん、その筋のプロではありませんし、使っているソフトも、iMovie、Garage Bandやアルパカとすべて無料ソフトなので、それなりのクオリティですが…。
 このアルパカという無料グラフィック・ソフトで仕事をしていると、子供の頃の「絵を描きたい」衝動が、夏の入道雲のようにムクムクと湧き上がってきます。気をつけねばなりません。
 昨日も、新作物語のティーザー用にお絵描きをしていると…「そういえば、自動車修理工場が欲しかったなぁ」(所ジョージさんの世田谷ベースみたいなものですね)とか「ウニモグに乗りたかったなぁ」などと、余計な衝動がムクムクと湧き上がり、気づけば仕事を放り出し、まるで三歳児が画用紙に絵を描きなぐるように遊びはじめ、気づけば真夜中になっていました。
 そして翌朝。濃厚な反省の色を宿した私は、朝カフェをしつつ、今日こそ真面目に仕事をしようと、アイスコーヒーの苦味を楽しんでいるわけです。
 ただ、遊びには発見というものがあります。ヨハン・ホイジンガやロジェ・カイヨワなどが検証したとおり、人間とは唯一遊ぶ動物で、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)なわけで、人間は遊ぶことにより何かを得るわけです。
 昨日は、ただただ面白くなって、子供の頃に夢見ていた車や自動車工場の絵を描いていましたが、ふと思うに、昨日出来上がった絵は、プロフェッショナルな精緻なものでも、敢えて狙ったヘタウマなものでもなく、私が自分なりに夢見た心象風景に描かれたまま放置していた絵そのものでした。
 私の実家近くにある嵐山の渡月橋や広隆寺の弥勒菩薩の観光写真を見ると、そこには私が実際に見て、そして自分の心象風景として残したものとは、まったく異なるものがあり、かなりの違和感を感じます。
 以前、このnoteでシュル・レアリスムの話を投稿したことがありますが、シュル・レアリスムとは誰もがなんとなく思っている幻想的なものではなく、アーティストにとっての徹底的な現実を描写するものだと思っています。
 この徹底的な現実(リアリティ)は、人それぞれでまったく異なるわけで、コップ一杯の水にしても、ある人はダムのようなイメージを持つでしょあし、ある人は小指の爪先のようなイメージを持つはずです。つまりそれこそ徹底的な現実なわけですね。
 昨日描いた車や自動車工場の絵も、ほぼほぼ私の心象風景にあるものになり、ニタニタしていたのですが…「仕事をせんかい!」というもう一人の声が聴こえてきます。美とは、切なく、流れゆくものでもありますね。中嶋雷太

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