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私の美(67)「砂の上の足跡。もしくは意図のない美」

 ある日唐突に、ある視座をくっきり発見するということがあります。
 ほぼ毎朝、湘南の海岸で朝カフェを楽しんでいます。朝カフェと言っても、自宅でコーヒーやカフェオレや昆布茶などをその日の気分で作り、フタ付きのタンブラーに入れ、ふらふらと浜辺の土手まで歩いてゆくだけ。徒歩数分の距離なので特に苦でもなく、広大な海と空に身を委ねるだけの朝カフェです。
 浜辺へと続く土手に腰を下ろし、サーファーたちの姿を視界に置きながら、タンブラー片手にぼんやりしていると、何かを思いわずらうことなど忘れ、時がゆっくりと過ぎてゆきます。
 カチリカチリと秒針よりも刻まれていた東京の時間とは対照的な時間は、私の知覚にも大きな影響を及ぼしてくれているようで、知覚以前の動物的な感覚器官が解き放たれるようでもあります。
 座っているのに飽きると、浜辺をゆっくり散歩するのですが、先日のこと、濡れた砂浜に誰かが残した足跡があり、私は思わずスマートフォンのカメラにその足跡を収めました。
 自宅に帰り、スマートフォンの写真フォルダーに収まったその足跡を眺めていると、哲学者だった鶴見俊輔さんの「限界芸術」という言葉が、ポコリも浮かんできました。その言葉は、鶴見俊輔さんが「限界芸術論」という書物のなかで語られたもので、私たちの生活といわゆる芸術の間の広い境界線にある、専門的な芸術家によるものではなくて、非専門的芸術家が作り大衆が受け入れる芸術を指す言葉です。確か、芸術を純粋芸術、大衆芸術、限界芸術と分けられていたはずです。アルタミラの壁画や、落書き、民謡や盆栽…等々、私たちの日常生活に根ざしているなんでもない芸術のことを指されていました。
 さて、ではこの足跡はなんだろうなぁと考えていて、意図があるのかないのかが気になってきました。鶴見俊輔さんの限界芸術では意図あるものが限界芸術として数多く取り上げられていましたが、この足跡を残した人はそんなこと何も考えずにいた、つまりまったく意図などなかったのに、私という人間は、それをとても美しいととらえ、感動さえしたわけです。
 じゃあ、その感動とはどんなものだと問われても、安易に言葉を重ねたくないものです。「私の孤独感がそこに存在するかのように…」などと言葉を重ねても、その感動の一億分の一にも満たないだろうと思っています。
 とはいえ、この意図のない美は、はっきりと私の心の奥底に眠る何ものかに強く訴えかけてきたのは間違いありません。
 ある日唐突に、ある視座をくっきり発見するということがあります。その唐突さにはきっと意図のないだからこそではないかと、考えています。中嶋雷太

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