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マイ・ライフ・サイエンス(13)「内なる言葉のサイエンス」

 言語学というか、私たちが使っている言葉とはどういうものかを考えるのが好きです。もちろん、なんとなく◯◯だと思うだけでなく、客観的に見てどうだろうかと考えるわけです。
 若いころ、大学と大学院でジャーナリズムを学びつつ、学際的に関連する学問にも手をつけてきましたが、ジャーナリズムにとって言語学はとても大切だと考え、近代の言語学・記号学の始祖ともいえるフェルディナン・ド・ソシュールの「一般言語学講義」から哲学、文化人類学、芸術学などへと学ぶ範囲を広げてゆきました。
 さて、その言語学ですが、サイエンスとして学ぶところは多々ありますが、ある一点につき未だに?な部分があります。
 それは、内なる思考とでも言えば良いのか、つまり、私たちが日常生活でふと考えたり思いついたりする言葉についてです。もちろん学問の体をなさねばならないので、言語学者は美しい言語をベースにあれこれ議論を重ねます。「私は林檎が好きだ」などと、研究対象となる言語を机の上に置いて研究するわけです。文化人類学的には、南米アマゾンなどへ現地調査し、ある部族の発話や、顕現化されたコミュニケーションのあり様などを調べるわけですね。
 ところが、それは顕現化されたものしか調べられず(そうではない方もいらっしゃいますが)、素材になりそうな美しい言語が研究俎上に乗せられます。が、実際は誰も使ってはいないわけです。
 たとえば、私は「私は林檎が好きです」と発話したことも、頭の中で発言したこともありません。「林檎?あ、林檎すきだよ」とか「はぁ…、林檎食べたいなぁ」が、私のリアルな言語です。特に、頭の中で使う言語は、途切れ途切れで、名詞だけが飛び出したり、何かを深く考えていたとしても、「…そうやなぁ…。◯◯は、本当は××やから…」とか「はぁ、どうしよ…ま、あれをこっちにしといて、あそこのをここにこうしよ…」とか、たいてい分節的です。その分節的な言葉を補うのがある種のイメージです。それはとても象徴的なイメージで、動画の場合もあります。
 これらを「内なる言葉」とすると、私たちはポツリポツリとした言葉を浮かべると同時になんらかの象徴的なイメージで考えごとを補っているようです。それがリアルな内なる言葉ではないかと思うのですが、皆さんはいかがでしょう?
 ところが、サイエンスとしての言語学はたいていこうしたリアリティを避けます。そうではない学者もいらっしゃいますが、たいてい美しい言葉がお好きです。
 フェルディナン・ド・ソシュールの言語学からさらに現象学的哲学へと踏み出すと、人間の思考について、美しい言葉というか厳格な言葉で考えられてゆき、私たちのリアリティからさらに離れてゆきます。特にヨーロッパのキリスト教的な風土もあるのでしょうが、二元論的な考え方がさらにあい混じるので、ガチガチの人間像がそこに語られ始めます。
 この影響を受けたのか、明治の近代化の流れのなかで近代小説と呼ばれるものの筆致もまた、ガチガチの内なる言葉で登場人物が描かれ始めたように思われ、その流れは現代にも根深く影響を与えています。
 その現れの一つが小学校での作文で、美しい言葉を原稿用紙に埋めるための作業が課せられ、内なる言葉は、そのままではダメだと先生に叱られます。論理だった思考が大切であることと、人間本来のぶつ切れの内なる言葉のリアリティは、見事に切り離されます。やがて、「精緻な心理描写が素晴らしい」となり、作文から小説の世界にまでその病理的な美しい言葉が再生産され、小説の登場人物の多くが、正邪関わらず生真面目に論理だてた言葉を持ち、評価するものもその美しさを褒めちぎることになります。
 物事を深く考えることは素晴らしいことです。ただ、論理だった言葉を長々と連ねることと、人間本来の内なる言葉のあり様を語ることとは、まったく違うものだと思っています。
 ただ、そうではない小説もあります。田宮虎彦さんが遺した「足摺岬」という小説では、ある登場人物は足摺岬に立ち喚きます。戦時中はお国の為に頑張って来いと出征に国旗をはためかせた村人は、戦後、村に帰ってきた復員兵を忌み嫌います。その節操のない村のなかで、その人物は喚き叫びます。それは、美しい言葉でも、論理だって精緻な心理描写でもありませんが、内なる言葉をそのまま吐き出す姿だと思っています。
 哲学者のカントは、理性・悟性・感性という哲学用語を提出しましたが、別に理性が勝っているわけではなく、理性・悟性・感性が合い混じるのが人間なのですから、言葉もまたそうした合い混じったなかで考察すべきではないかと思っています。
 個人的には、こうした内なる言葉を、私は「野生の言葉」だと考えています。クロード・レヴィ=ストロースの「野生の思考」を読んでいてふとその言葉が浮かびました。あと、中村雄一郎さんの「共通感覚論」。「…はぁ…、あ、鰻が、食べたい」と呟くときに、私の象徴的なイメージが全感覚で蘇ってきます。これが、私のリアリティ溢れる精緻な心理描写です。
 内なる言葉のサイエンスが今後どうなるのか…楽しみです。中嶋雷太

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